朝日新聞社「一冊の本」より-合気道、マルクスに勝つ
  インタビュー:朝日新聞編集委員 早野 透氏

◎ 広島県庄原市のお生まれ、どういうおうちだったのですか。

亀井 江戸時代はあたり一帯、うちのものだったんですけどね。幕末に、剣道に凝っちゃって、武道場をつくって、 全国から、浪人者や武者修行者を集めた。それで田畑全部なくなっちゃって、明治以降は、田んぼ四反三畝。猫の 額。山は、まきをとる程度です。いまダムの予定地です。谷間にぽつんぽつんとしか家のないようなところなんで すよ。
 家から1里半ぐらい、山を登って、峠をおりたところに学校がある。通うのに、1時間半くらい、雪のときは、 4、5時間かかる。上級生から並んで、新雪をかき分けかき分け行く。6年生になると、大将だ。峠の地蔵さんまで 行くと大儀になっちゃってね。下級生引き連れて、回れ右して帰ってきたりした。

◎ 先祖も血の気多かったのかな。

亀井 NHKの『毛利元就』に出てくる尼子の筆頭家老が亀井の血統だったんですよ。尼子が敗れて、二君に仕えず と、島根県から山を越えて広島県へきた。神官になって、帰農したんです。
 ともかく、合併前の比婆郡山内北村で、下から数えたほうが早いほど貧乏でした、私の家は。おやじは旧制中学 校を出て、村の助役をずっとやって、敗戦の責任をとってやめたわけです。

◎ なるほど。

亀井 財産がないから、子供4人には教育を身につけさせようと思い立ったんですよ。田舎に置いていたのではしよ うがないと、町に出した。私は、親が寝ている姿を見たことがない。米と野菜を送り、現金も送らにゃいかんで しょう、兄や姉の……。すさまじい生活です。
 ただ、私は地元に置かれかけた。おやじが音を上げちゃった、もう限界だと。しかし、おふくろが泣いて、死ん でも静香も出してくれと言ってくれた。広島市で兄姉といっしょに民家の2階を借りて、自炊生活でした。

◎ しかし高校を放校処分になったとか。

亀井 広島修道高校2年のときに、ビラを配っちゃったの。

◎ 何のビラですか。

亀井 市電の定期を買うのに通学証明書がいる。それを金をとると言い出したわけです。しかしすでに授業料を 払っているのだから、それはおかしい。ガリ版で屁理屈を書いて配ったら、赤い学生だと。担任の先生が「放校 処分になるより、自分でやめたほうが傷がつかん」と言うから、「ああ、やめますよ」と汽車に飛び乗って、 生まれて初めて東京に出た。兄貴が東大に入って、兄姉が東京で生活していたんです。

◎ 転校先は大泉高校でしたね。

亀井 修道の内申書が365番中333番だった。九段高校から新宿高校、5つ受けたけど全部落ちた。最後の大泉高校 でも、試験は名前しか書けない。校長先生から「亀井君、どうするんだ」と言われて、「もう受ける学校がありま せん。中退です」と答えた。「じゃ、心を入れかえて勉強するか」「はーっ、勉強します」というわけ。

◎ そんなに勉強できなかった?

亀井 勉強しなかった。親の心、子知らずだったな、遊んでばっかりで。広島では男の学校だから、勉強できなく ても恥ずかしいとも思わんしね。大泉は旧女学校でしょう。だから、中学3年の教科書から取り寄せて勉強を始め た。それで、どうにか、まあまあのところに行くようになったんだけれど。

◎ 頭の回転は、政界でも有数の人なのに……。

亀井 いやいや、そんなことない。

◎ そのころは、どんな本を読んでいたのです。

亀井 どっちかというと文学少年だったんです、青白い……。読みふけっていたのは、戦後すぐの椎名麟三とか、 田宮虎彦、ちょっと実在主義っぽい、それに傾倒していて。暗い暗い小説ね。野間宏とかね。

◎ 椎名麟三はキリスト者で、思い詰めたような……。今の亀井さんから想像できないなあ。

亀井 変わったのは、東大に入って、合気道を始めたことからです。今は亡くなった嶋田和繁先生、学習院高等科 の先生をしておられた非常にすばらしい方だった。大塩平八郎の『洗心洞箚記』と『西郷南洲遺訓』、昔の本だっ た、ぼろぼろのね。それを読めと貰ったんです。

◎ その嶋田先生とはどうして知り合ったのです。

亀井 葦津珍彦さんは「神社新報」の主幹、それから嶋田先生、いま明治神宮の武道場の至誠館の名誉館長をして いる田中茂穂さん、この人は東大合気道部の師範、こういう1つのグループの方々と、合気道が縁で接するように なったのです。

◎ なるほど。

亀井 高校時代は、左っぽかったんですよ、私は。そこから180度読書傾向が変わっちゃった。もっとも大塩平八郎 もどっちかというと左みたいな話でね。幕府の役人だけれども、乱を起こす。権力者の立場から思考しなかったの ね。反権力というか、陽明学ですからね。

◎ 西郷さんも、陽明学の雰囲気がありますね。

亀井 生きとし生ける者に対する愛情というか、共感ですよね。哀れむとか何とかじゃなくて、同じ人間という立場 から、社会的地位の高い低いとか、職業の違いを超えたものが、あの人たちの気持ちの中には強く流れていますね。
そういう苦しみを自分の苦しみと感じて、じゃ、何をするか。感じたり、思っただけではだめだ。行動しなきゃだ めだ。鮮烈な思想に、非常に感銘を受けました。

◎ 陽明学派だな、亀井さんは。

亀井 それから、歴史小説を読むようになった。西郷隆盛、大塩平八郎に関する本を含めて、幕末ものを中心に、 ありとあらゆる時代小説を買いあさった。

◎ どんな作家ですか。

亀井 海音寺潮五郎も司馬遼太郎も。フィクションはほとんど読まない。歴史を生きた人間に強い関心を抱いた。純 文学を読まなくなっちゃった。ぶれがあるんですな、私というのは。

◎ 東大では寮生活でしたね。

亀井 駒場寮の、向陵会にね。これは寮歌を編集する会なんです。梁山泊みたいなサークルで、民社党の塚田延充も いた。北海道議会議員をやっていた木下一見も同じ部屋だった。

◎ 6人ぐらいで1部屋でしたね。

亀井 寮生活をやりながら、東大に合気道クラブというのがあったのを、ひとつみんなで部をつくろうやと、私の ときに合気道部をつくったんです。全国学生合気道連盟というのも私がつくった。私が初代委員長、大平正芳さんの 長男が慶応の主将で副委員長。彼とはよく飲み歩いてね。払いは全部、彼だったけどね。彼、神崎製紙に行って、 病気で死んじゃったんです。私が初めて立候補したとき、大平さんは「亀井君は大丈夫か」と気にかけてくれていた。

◎ 合気道一筋の生活ですね。

亀井 それとアルバイト。家から仕送りはない。当時はみんなそうだった。

◎ どんなアルバイトを。

亀井 家庭教師は、週2回で3千円だったですよ。かけ持ちは3つぐらいしかできない、無責任になっちゃうから。 それを9時ごろまで、それから五反田にある映画のフィルム現像会社の夜警です。
 時期はずれるが、銀座1丁目のクインビーという、当時は高級なキャバレーでもアルバイトした。顔が悪いから 客席に出してもらえない。店の奥でおしぼりを洗濯して、蒸し器で蒸して、日給5百円。店が終わったら、こんな ふうに……。

◎ モップで掃除する……。

亀井 昼は合気道、夜はアルバイト、ほとんど勉強をしなかった。私の成績は、オール可。駒場でも本郷でも。 柳田邦男とか、大蔵省財務官だった千野忠男、同じクラスだった。私と柳田は授業に一切出ないことで有名だった。
コンパのときだけ出てくる。
 おもしろいドイツ語の先生がおった。テストのとき「亀井君、頼むから、ちょっとでも書いてくれ」とそばに 来て言うわけですよ。落第させたって、どうせ向学心がないと思っているから、可をつけてくれたの、その先生。

◎ じゃあ経済学はまともには……。

亀井 もう全然。

◎ マルクスを読んだとかということはない?

亀井 ところが、それは違うの。もともと左っぽいから、「マルクス・レーニン全集」を全部読みましたよ。 『資本論』ももちろん読みましたね。

◎ 勉強してるじゃないですか。

亀井 興味を持ったことは、僕はやるわけよ。授業の単位をとるための勉強は一切しない。結局、マルクスに最終 的にかぶれなかったのは、合気道をやっていたせいもあるけれども、その国とか、その地域の文化、習慣や伝統 ですね。そういうものから離れた生活のありようはないと。支配と被支配というように簡単に分けられるものでも ない。マルクス経済学が、1つの分析の仕方であることは認めるけれども、唯物弁証法みたいに人間の精神的な 働きについての価値を認めないことには、ついていけなかった。

◎ 合気道対マルクスは、合気道の勝ちか。卒業してからは……。

亀井 オール可でこんな性格でしょう。川崎製鉄、日本鉱業、全部落ちた。

◎ 東大生でも落ちたのか。

亀井 そうしておったら、第2次募集みたいな形で来たのが、今の住友精化です。「来い」と言われたものだから ね。大阪に本社、加古川に工場がある。夙川の独身寮で1年ばかり生活をした。居心地のいい会社だった。しかし その年、60年安保があったんです。

◎ 安保闘争のとき、亀井さんは大阪にいたんだ。

亀井 それで、これはいかんと。そういう点は、人間が短慮なんです。よし、警察に入ってやろうと思って、 3月末にやめたんです。ちょうど1年で東大に戻った。図書館を使うには学士入学する必要がある。その手続きを とって、七徳堂にミカン箱を置いて、失業保険で食ってやろうと虫のいいことを考えて……。

◎ 七徳堂?

亀井 東大構内の武道場。昔おったところだからね、布団を持ち込んで。飯田橋の職安で1回だけ、失業保険を くれた。だけど就職の意思なしと見破られて。

◎ こんな者には出せないと。

亀井 食っていけんからね、またアルバイトを始めた、徹夜で油の消費実験のデータをとるの。おれは経済学部 だったから、憲法も行政法も、刑法も刑事訴訟法も、何も読んだことがない。本を買い込んできて、勉強を始め た。だから、恥ずかしい話、法律用語の読み方は今もわからない。独学で本で勉強したから、耳で聞いていない。

◎ そういうこともあるのか。

亀井 3ヶ月です、勉強したのは。当時は、国家公務員上級と警察上級の試験は別だった。小手調べに、まず 国家公務員の上級を受けたの。それを受けて、七徳堂に帰って洗面所で顔を洗ったら、洗面器いっぱい、カーッ と血を吐いちゃった。実は、広島で不摂生をしていたものだから、肺浸潤をやっていたんです、高校2年でね。 だから、「あっ、結核が再発したな」と。

◎ 根を詰めた勉強のせい……。

亀井 いや徹夜のアルバイトで……。それで、試験の結果をみたって、これはしようがない話だから、東大 病院に行って診てもらった。そうしたら、何でもないというわけですよ。「わーっ、損しちゃった」と、試験 の結果を見に行ったら、3番で入っている。

◎ そりゃすごい。

亀井 兄貴の友達で通産にいっているのが「警察もいいけれど、通産も受けてみろ」と言うので、出かけて みた。面接で官房長がね、「1年で民間をやめているけれども、そんなに浮気なのか、君の性格は」と言うか ら、私は怒った。「おれは自分の人生に責任を持っている。浮気とは何事だ。もう一度言ってみろ」と。
 その官房長は「おもしろい。採用したい」と言っていたらしい。だけど、そのうち警察上級の試験の発表が あって、こっちも入った、いい成績で。それで警察に行った。もう一度大変なことがあった。七徳堂に電話が かかってきた。病院から「もう1度来てくれ」と。レントゲン写真を見せられて、「骨がんの疑いがある。精密 検査だ」と。

◎ そりゃショックですね。

亀井 強烈だった。さすがにあんまり飲めない酒を飲んで、この世も終わりだと歌舞伎町あたりをうろうろし ていた。ところが、それも何ともなかった。だから、私は今も医者にかからない。

◎ 当てにならないと。

亀井 結局、警察に入ったのは、昭和37年4月ですね。2年遅れで。

◎ しかし、やるときはやるんですね。

亀井 ヤマが当たるんです。ここが出そうだというのがわかるんだな。だから、非常に効率的な勉強なんです。

◎ 政局勘の働かせ方に通しているのかな。警察では、どんなキャリアを。

亀井 埼玉の捜査第2課長を2年半ばかりやったんです。自分で威張っちゃいかんけれども、大きな事件をバシャ バシャ挙げまくった。当時の東京地検から新聞記者を通じて、何で事件が挙がるのか、コツを教えてくれみたい なことも言ってきました。「いい部下を集めればひとりでにそうなりますよ」って私は言うた覚えがある。それ は優秀な部下を集めた。ほんとうに猟犬みたいだった。

◎ 捜査指揮官の才能があるんですな。そして、その後は。

亀井 いろいろいきさつがあってね、順当なコースにはいかなかった。亀井には、当時、暴れまくっていた極左 対策をやらせておけと。警察庁に調査官室ができた。私はそこに行き、手がけたのが、成田の代執行で警察官3 人が死んだ事件です。焼き鳥みたいだった。すさまじい現場です。着のみ着のままで宿をとって、そのまま1ヶ 月。それから、連合赤軍の浅間山荘、テルアビブ事件……。そのあと、情報担当に変わって、そこに5年間いた んです。成長記録でしょう。

◎ 政治に志したのは……。

亀井 政官財やマスコミの裏を洗う、情報の仕事をずっとやれるのだったら、政治なんか出ませんよ。ところが、 またルーチンに戻らにゃいかんのです。やくざな世界、血なまぐさい現場、情報とやってきたら、とても戻る気 がしない。
 それで、広島3区の調査をした。永山忠則先生が引退して、後継者が落選している。永山先生と後継者の仲が うまくいっていないという情報がある。私の田舎は、代議士がいなくて寂しい思いをしてもいる。
 私はだれにも相談せず、警察に辞表を出した。昭和52年の終わり近くのことでした。350万の退職金を持って 帰って、自分で電柱にポスターを張って。集会に出かけたら、聴衆1人だけのことが、5、6回ありました。

◎ 政治家亀井デビューの試練だったんだな。

《対談後記=1997年12月》
連立政治の混沌の中で、亀井静香氏は自民党タカ派の闘将として急速に台頭した。が、氏の政治行動のおもしろ さは、「ハトを護るタカ」として村山政権を支えたかと思えば、「保保連合」で小沢一郎氏と気脈を通わせた、 その振幅の大きさにある。
若き日の氏が感銘した大塩平八郎は、大坂町奉行の与力で「治安」の経験を持ちながら、飢饉の惨状に「救民」 の挙兵をした。時に、リスクをいとわずに走る亀井氏の軌跡は、この大塩の振幅の激しさに似ていて、興味深い。
氏にまつわる折々の記事には、いささか影のある人脈とのつながりなどが報道されている。そのあたりのこと、 よくは知らぬが、氏の大塩精神を損傷することには、してほしくない。
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