活動実績

新聞・雑誌等での亀井静香の発言

戻る

2003.9.1◎Causa September2003
「死刑」制度は必要か
いま改めて死刑制度の存否を問う

確実に生まれている死刑廃止への流れ
基本的には人間の命は大事にする。
それが凶悪犯であろうとだれであろうと、人の命は大事にするのは当たり前のこと
ー 衆議院議員 亀井静香

死刑は廃止すべきか。
古くから議論されてきたテーマだが、「議員連盟」の活動など、廃止に向けて具体的な動きも出始めている。
本特集では、議員連盟会長の亀井静香・衆議院議員と、全国犯罪被害者の会の本村洋氏に、それぞれの立場から、「死刑」について語ってもらった。


● 死刑は“国家による殺人”


ー まず、先生が死刑廃止をお考えになったきっかけについてお聞きします。

亀井 漠然とですが、子供のときから私は死刑なんていうのはいいことだと思っていなかった。だから「死刑廃止を推進する議員連盟」ができた時、すぐに入会したんです。歴は長いんで、2001年に竹村泰子(元参議院議員)さんの後に、私が会長にさせられちゃったわけです。

ー ご著書(「死刑廃止論」花伝社)の中にも書かれていますが、先生は警察庁に勤務された経験から冤罪の問題についても発言されていますが。

亀井 やはり犯罪者といえども、どんな悪いことをした人間だって人間であることは間違いないんだよな。敵討ちというのなら、感情としてあるかもしれないけれども、それに代わって国や政府が殺すなんでことはやはりやるべきじゃない。基本的には人間の命は大事にするということだよ。それが凶悪犯であろうとだれであろうと、人の命は大事にするというのは当たり前のことだと思うよ。

ー 7、8年前くらいから、オウム事件やその後のさまざまないわゆる凶悪と言われる事件がマスコミ等ではかなりクローズアップされるようになり、さらに犯罪者の低年齢化、それから国際的にはテロの問題など、国民感情の中には悪いことをするやつをちゃんと懲らしめないとだめなんじゃないかという機運、一言で言うと厳罰化せよ、という雰囲気はかなりあると思いますが。

亀井 目には目を、歯には歯をという報復感情が存在することは事実だけれども、そのままに流されて行ったら人類の未来は暗黒ですよ。そういう流れもあるけれども、一方では相手を許す、また人のためには自分の命まで投げ出すという崇高な心の流れというのは今日まで来たんであって、悪いやつは罰せないかんけれども、何も命を取らなければ罰することにならないのか。殺したからといって、じゃ、報復感情が本当にそれで満たされるのか。これもやはり殺人です。殺人であることには変わりないんだからね。

ー 国家の殺人ですね

亀井 国家の殺人をやったことで、本当の意味で被害者の遺族というのは救われるんだろうか。憎っくきやつが処刑されたら自分の気持ちは救われたということに本当になるんだろうかという問題があると思うよ。

死刑廃止への流れ


ー 新聞報道などでは、「死刑廃止を推進する議員連盟」が終身刑を含めた法案を国会に提出することに対して、自民党の中の存置論者はそれに反対したというような報道も出ています。他方、この間の国際的な流れとしては、先進国ではアメリカ以外のおおかたの国で死刑制度は廃止されています。フランスが廃止したときは世論の半分は反対だったということも聞いていますが、なぜ外国でそういうことができて、日本ではそれが法律としてなかなかできないんでしょうか。

亀井 日本でも死刑廃止の流れが生まれているし、時間の問題だと思っています。今回、終身刑と死刑廃止の議論を国会の中でする。臨調をつくるという法律を出すことにしましたけれども、おそらくこれは成立しますよ。臨時国会には間に合わなかったけれども、自民党の中もこれに対する反対はほとんどない、終身刑の導入と臨調をつくって議論をしようということは。だから、それによって初めて死刑の正否が国民の代表の場で議論されて、今まで凶悪犯罪をやっても10年ぐらいで出てくるじゃないかという批判に代わって終身刑という話になる。何も死刑にしなくても、終身で償わせればいいじゃないかという人は多いよ。ものすごく多い。だから、そういう意味では死刑廃止への流れは確実に生まれてきている。

ー それで次に死刑存置か廃止かという話になるんですか。

亀井 なってくると思います。

ー すぐに廃止ということではなくて...。

亀井 議論してみないとわからないけれども、今の世界の潮流なりいろんな流れから言うと、死刑存廃の議論の落ち着くところはだいたい見えますから。

ー 制度自体を廃止することになりますか。

亀井 そういう方向になると思います。
人間存在を問う廃止運動

ー 先生は講演の中でも、死刑廃止をするということはもちろん制度そのものを変えることではあるが、それ以上に社会を変えていくことだということを強調されており、制度論を超えた民主主義の議論に踏みこんでいますが。

亀井 今の死刑廃止の運動は、私はただ単に死刑廃止という制度的な問題だけじゃなくて、やはり人間の魂というか心というか、そういうもののありようについて問いかけていく運動だと思います。だからある意味で人間存在そのものに迫っていくことでもあろうかと思います。自分の心の中の自分を問い質していく。人間とは何なのか。そういう意味の運動にもなってくるということは、今の日本の精神状態、社会状況から見れば大事なことだと思います。
 今みたいに自分さえよければいい、自分の幸せのためには他を犠牲にしてもいいではダメなんです。死刑論者は冤罪のことを言うとそのままそのことは、言った本人に対しても鋭く判断が迫られるんです。「冤罪は絶対無いと思いますか」「いや、あるでしょう」「そういう人にとって人生は百パーセント一変します。それを国家権力が抹殺してしまう。そういうことがあっていいんですか」「それは何万分の1でめったにないことだから、社会の治安を維持するためにはやむを得ないでしょう」の一言でしょう。あなたはそれで本当にいいんですか。他の犠牲においてあなたの安全が守られるということで、あなたはそれでいんですか。あなたの身が守られるのであれば、他の犠牲においてあなたが守られる必要はないでしょう。容易なかたちで死刑という脅しのもとで無辜の人が殺されていくというリスクがあっても、あなたは自分の身が安全になることであればいいんですか。私はそういうあなたとは付き合わない。

ー 世界的には9・11の同時多発テロが起こったあと、テロに対する報復の戦争(アフガニスタン戦争)があったりという状況ですが。

亀井 報復感情だけを認めていいなんて、私はアフガンの報復ね、報復感情の国は認めませんよ。そんなことを言い出したら、ヒロシマ、ナガサキはやられちゃったんだからアメリカに対して報復感情を持ち続けなければいかんことになっちゃう。間違ったことをやった国もやはり許すというところがないとね。

ー 報復を果てしなくやっていくと、みんなが死んでしまうということですね。

亀井 そう。だからこのあいだ来た中国の公使の人に言ったんだけれども、日本が残虐なことをしたと言って、それは戦争だから、日本がやる場合もあるし中国の側もやる場合、いろいろなことがある。それは反省しなければいけないけれども、そのことだけを、過去を引きずって、けしからん、けしからんということだけやっていたら未来がないじゃないか。日本はアメリカに対して原爆をやったのはけしからんなんて言わないよ。そういう寛容、相手を許すという気持ちがなかったらいけないよとぼくは言うんだけれどもね。

ー ただ、死刑という制度が犯罪の抑止力になっているという議論も根強いですが。

亀井 なってないじゃない。こんなに凶悪犯罪が起こっている。アメリカだって、現実になってないですよ。ならない。犯罪を犯す連中が、死刑になるからやめようとかそんなのいるわけないじゃないか。

冤罪を生む刑事裁判の構造


ー 日本社会全体について、死刑制度を議論することは非常に大きな意義があると思いました。さて、現在進行している司法制度改革には、いくつかの積み残した課題があります。その一つが、個の命を大切にする、個の尊厳を尊重した制度づくりです。その点で、犯罪者の矯正や死刑制度には十分手が付けられていません。

亀井 今の司法制度は法曹一体の悪弊が蔓延していることですよ。相互牽制じゃないじゃない。なれ合っちゃってる。裁判官は検事の言うことしか聞かない。

ー 刑事裁判の場合、特にそれが顕著です。

亀井 だから刑事基礎法の調書の証拠能力、あれもしょうがないけれども、目の前で被告が「違う」「違う」、あるいは参考人が「違う。あの供述は違う」と言っても、検面調書を取られているから裁判官はそっちを優先しちゃう。これが冤罪の構造になっているんです。だから裁判官も民間から登用したらいい。検事も民間から登用したらいい。

ー 具体的にはどうすればいいでしょうか。

亀井 司法試験に受かった人間ばかりでなくて、全員というわけにはいかない、法律専門家もいなければいけないけれども、アメリカの陪審員制度をミックスしたようなかたちで、きちんとしたいろいろな職業を経験し、いろいろな人生を経験してきたような人も、3人の判事の中には1人ぐらい入れて、そういう人の人生観とか経験、価値観が生かされていくようなことをしたらいいんじゃないの。今の金太郎飴みたいな、凝り固まった浮世ばなれした裁判官が、浮世ばなれした検事の言うとおり判決を下していくんだからどうしようもないよ。

人間は“罪深い”生き物


ー 今の死刑制度の問題については、まずどういう制度か知ってもらいたいというところがあります。まだまだ報復の問題とか、隣に凶悪犯がいたら困るという素朴な感情や、被害者とのバランスが会わないから存置されるべきなどといういろいろなものがあると思うんです。

亀井 被害者の人はつらいだろうけれども、人を殺すということをしないでつらさを克服していく努力はしてもらいたい。自分が被害者じゃないから、家族じゃないからのんきなことを言っていると言うかもしらんけれども、人間は本能にあるそういうものを克服するという努力もしないでそれに流されていった場合は、惨憺たる陰惨な社会になってしまうよ。そういうことの中で、自分が本当に幸せになっていけるのかというと、ならないと思う。

ー ただ、たとえば働き手の父親なりが死んで、現実に生活ができなくなります。

亀井 だから保坂展人(社民党・衆議院議員)事務局長にも言ったんだ。今後終身刑になった場合、終身、刑務所の中で重労働に服する。その果実は被害者に渡す。今はそうじゃないでしょう。そういう法律をつくるように事務局にも言っているんです。

ー また、幸いにも犯罪当事者(加害者、被害者)ではない人たちに対して何をきっかけにそういうことを考えてもらえばいいのでしょうか。

亀井 人間は自分をよく見つめてみれば、もともと罪深い人間なんだよ。基本はそこだと思うね。

ー 完璧な人間はいないということですか。

亀井 殺人を犯して凶悪犯罪を犯して、人をつらい重いにはしていないかもしれないけれども、別なかたちで、毎日毎日自分が生きていることが他に対して大変な被害を与えていることがあるんです。殺人ということではなくて。自分というのはそういう意味で、場合によっては殺人というかたちになるし、人間というのは殺人を犯してなくても罪深いんだよ。だからそのことから出発しないといかん。一方では天使や仏みたいな気持ちを持っています。一方では罪深いんですよ。これは宗教とか何とかの話じゃなくて、死刑の問題は人間とは何なのかというところに必ず触れてくることなんだよな。

ー 殺人を犯す人も背景にはいろいろな社会的な要因がありますよね。

亀井 それはそうですよ。アメリカなんか統計ではっきりしているじゃないか。低学歴でしょう。生活程度が悪いところに死刑囚が多いでしょう。みんな同じ環境に生まれて、同じ生活環境に育つわけじゃない。自分の悪魔の心を制御できるような教育を受け、制御できるような生活環境で生きていける人と、一生天使の心が消えて、悪魔の心が支配するような生き方をせざるを得ないような環境に置かれる人間もいるわけですよ。生まれたときに別に分かれたわけじゃないんだ。
 そういうことを考えた場合、人間の集まりである社会全体の責任という問題もある。そういう犯罪が起きる場合に。もちろん個人の責任がいちばんありますよ。犯した個人に責任がいちばんありますよ。犯した個人に責任があるんだけれども、同時にその個人が存在している社会、また大勢の人たちの責任という問題が起きてくる。鴻池さんは親を市中引き回しと言っている。これは間違った極端だろうと思うけれども、いろいろなことの中で犯罪が起きてくる。それは犯罪を犯した人間を殺してしまえばいいというものではない。

 

政治家の責任


ー フランスの礼では死刑廃止の世論が50%に達する前に、ある冤罪事件が契機でしたが、政治家が決断し、国会で廃止を決定しました。この問題についての政治家の役割と先生ご自身が考えられていることを最後にお聞かせいただけますか。

亀井 政治家は、思い上がった意味ではなくて、やはり国家あるいは社会、また人間のあるべき姿を自らが提示して、「どうですか、皆さん」という責務を果たさなければならない。押し付けるというのではなくて、少なくとも「これでどうですか、皆さん」ということはやっていかなければいけない。「皆さん、どうですか」「どうですか」と、自分を選んでくれた人の意見ばかり聞くのではなくて...。

ー それだとご用聞きになってしまいますね。

亀井 だから自ら、「私はこう思うんですが、どうですか」と逆に問いかけていく立場が政治家だと思います。

※無断転載を禁ず


戻る

TOPに戻る

バックナンバー