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新聞・雑誌等での亀井静香の発言

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2004.10.15◎月刊自由民主11月号
この国を考える【51】
いま、最大の課題は日本人の魂の復権にある

現在、日本は既に午後四時半を過ぎている。制度的、構造的改革はもとより、長期的な視点でメスを入れなくてはならない課題は山積している。中でも「日本人の魂の復活」は、改革の根幹・土台となるべき、最大の課題だと考える。


亀井家の祖先は尼あま子こ氏の筆頭家老


 私は、広島県の北東部、鳥取・島根の両県に接する比ひ婆ば郡山内北村(現在の庄原しょうばら市川北町)で生まれ、幼少年時代を過ごした。
 庄原市は、三次市に次ぐ県北の中心地であるが、私の生地は、人口約千人ほどの中国山脈の山懐ふところの寒村である。しかも、生家はそのなかで下から数えたほうが早いほど貧しかった。
 亀井家のルーツをたどると、室町・戦国時代の大名尼あま子こ氏の筆頭家老・亀井吉助に遡さかのぼる。
 尼子氏は、出雲を中心に領国を拡大し、山陰、山陽十一か国の太たい守しゅとうたわれた。亀井吉助は、尼子氏の滅亡後、「二君に仕えず」と神官となり、帰農した。その後、子孫は、名字帯刀を許され、広い田畑、山林を所有する名家の一つとなったと聞いている。
 ところが、幕末、亀井家の当主が武道に凝り、道場をつくって大勢の浪人や武道修行者を養った。そのおかげで、すっかり財産を食いつぶしてしまい、私の生まれたころには、わずか四反たん三畝せの土地しかない貧乏農家に落ちぶれていた。

両親の寝ている姿を見たことがない


 それでも両親は、二人の姉と兄、私の四人の子どもを広島市内に下宿させ、進学校に通わせてくれた。私は四人兄弟の末っ子である。 本来なら、私が上の学校に行くための教育費を捻出する余裕などはなかったはずである。
 しかし、教育熱心な両親は、早朝から夜遅くまで、身を粉こにして働き、私を中学・高校と一貫教育をしている私立の進学校に通わせてくれた。大学は学生寮に入り、さまざまなアルバイトをやりながら、学費と生活費を稼いだが、私は幼少のころから両親の寝ている姿を見たことがない。明るいうちは農作業に精を出し、夜は内職の炭俵を編んだり、釣忍つりしのぶをつくり、子どもたちに仕送りを続けてくれたのである。当時、女学校に行っていた姉が母親代わりで、六畳一間の兄弟だけのママゴトみたいな自炊生活であったが、両親は学費や生活費と一緒に、米や野菜をせっせと送ってくれた。親とは、本当に有り難いものである。

日本の美風はどこへ行ってしまったのか


 私は貧しい農家に生まれ育ったので、弱者の気持ちは理解しているつもりである。私の故郷の人々も、また兄弟もそうであったが、日本人は長い歴史をとおして助け合うこころを育んできた。
 かつて日本の村々には「頼たの母も子し講こう」があり、日本人は良くも悪くも助け合いの精神で生きてきた。そのため真の意味での個人主義が芽生えなかったという欠陥もあるが、助け合いは日本の美風である。
 ところが近年、それを踏みにじるように、強者の論理が幅を利かせ、日本社会は弱肉強食の世界と化している。このままでは、日本は間違いなく崩壊してしまうだろう。私はそんな危機感に、居ても立ってもいられない心境にある。
 例えば、経済政策を一つとってもそうである。今、エコノミストたちの間では、「アメリカ流の市場原理の導入による徹底した資本主義を取り入れるべきだ」という声が高い。現内閣の竹中平蔵内閣府特命大臣(経済財政政策)も、同様の路線を基軸に据えている。アメリカ流の合理主義、競争原理は、裏を返せば競争に負けた弱者は切り捨てるという考え方であり、弱肉強食の論理に貫かれている。弱い企業、さほど儲からない商店は、この際退場してもらう。そのことによって、強い企業はより強くなり、儲かっている商店はより儲かるようになる。こうして経済を活性化させ、国際競争力をつけていこうというのが、小泉改革の考え方である。
 もちろん、私は市場原理の導入は大切だと思うが、相次ぐ中小零細企業の倒産、そのうえ、毎日百人もの自殺者が出るような世の中は、どう見ても異常である。こうした悲惨な状況を断じて許してはならない。昔からずっと私の選挙の応援をしてくださった身近な中小企業主も、経営に行き詰まり、この三年間で六人もが自殺に追い込まれている。そこまでいかなくても、銀行の「貸し剥はがし」に遭い、高金利のヤミ金融から金を借りて、それが雪だるま式に膨れ上がって、自己破産する人が増えている。
 その一方で、一兆数千億もの利益を上げている大企業もあり、強い企業はますます強くなっている。銀行も合併を繰り返し、弱い銀行や信用金庫、信用組合は、どんどん整理されている。そうして大きくなり、強くなった銀行は、さらに外資の助けまで得て資本を増強し、ますます強くなっている。
 今のように、強者だけが生き残ればいいというアメリカ型の経済政策を推し進めるだけでよいのか。弱いものは死ぬしかないのか。強者が弱者を助けるのは、日本の武士道精神であった。そうした美風は、いったいどこに行ってしまったのか。
 経済は、ある意味では弱肉強食の原理で動いている。とくに資本主義というものは、競争を是認するわけだから、これはもう弱肉強食そのものと言ってよい。もちろん、自由競争というものが人々の能力、エネルギーを沸き立たせ、活力ある社会をつくる原動力になってきたことは否定できない。
 しかし、それはあくまで経済での事象である。
 自由競争ということは、間違いなく勝者と敗者が出るが、負けた者はどうでもいいと切り捨てるのは初期の資本主義の考えであった。 今日では、敗者も再度挑戦できる環境を整える、また負けた者も生きていける社会、そういう考えが資本主義の中に定着し、そこに政治が介入することになった。いわゆる「セフティ・ネット」である。近年、日本でも立場の弱い者、弱者に優しい社会をつくることが盛んに言われ、行われてきた。
 ところが、今の政府の政策はまったく違う。政治が弱肉強食を認めて、しかも、それを積極的に進めたら、もうそんな国家は終わりである。
 そもそも民主主義(デモクラシー)というものは、古代ギリシャのアテネで生まれたが、その着想とは市場経済原理のギブ・アンド・テイクが根本になっている。これを政治に応用したのがデモクラシーである。だからこそ、アダム・スミスは「経済は経世済民」、シュンペーターは「創造的破壊」と言ったのである。目的は、あくまで創造であり、破壊はそのための一手段なのである。そこを履き違えてはいけない。
 弱肉強食の論理は、日本人本来の精神文明に馴染まない。私は日本流の弱者救済の経済論理でいかなければならないと考えている。

日本人の魂が萎なえてしまった


 日本国民は戦後、アメリカ流の合理主義、効率主義、画一・均一化を尊び、あらゆる分野で機能面を最優先させてきた。確かに、それは戦後の貧困から脱却し、日本を工業国に押し上げるには有効かつ必要な手段であったかもしれない。
 しかし、世界に誇るべき民族の誇りを自ら捨て去り、アメリカと同じ競争原理を優先させてきた結果、「自分だけでなく、皆で幸せに良くなろう」という共生の思想が失われ、日本人の魂が萎えてしまった。
 日本人の魂が荒廃した結果、強者の理論を押し通す政権が生まれた。たとえ国民が自ら選んだ結果であっても、私はこうした現状を見過ごすわけにはいかない。
 誇りと自信を失い、目先の利益をわれ先に追い求める日本の姿、国民の姿は、根が深いだけに再生作業は困難を極めるが、私は希望を捨ててはいない。私は日本再生ために、身体を張る覚悟をしている。

改革の先にあるものを描出せよ


 いま「この国のかたち」がどんどんぼやけている。改めて日本とはどのような国か、根本から考え直してみる必要がある。聖域なき構造改革を目指す信念のあるステーツマン・小泉純一郎氏は、私の認める政治家の一人であるが、現政権に最も欠けていることは、改革を乗り越えた先にどのような日本の姿があるのか、明確に示していないことである。また、具体的な政策を党の総力を結集して実現するという手法にも欠けている。私は、到達点が具体的であるほど、改革の推進力は増すと考える。
 この十年余り、改革を叫び続けたはずの日本の政治が、歴史を塗り替えるようなダイナミズムをついに実現しえなかったのは、抵抗勢力が原因というよりも、改革の先にあるものを描出し、国民と共有するまでに至らなかったからである。

目指す国家像は「美しい日本」 の創造


 われわれ政治家は、今度こそ改革を頓挫させぬためにも、目指すべき国家像を明示して見せなければならない。
 そこで、私は虚心坦懐に自身の胸に問うた。政治家として今日までの歩み、そして今後、何を目指すのか。
 突き詰めてみると、それは「美しい日本」という一語に凝縮される。
 「美しい」には、極めて広い意味を託すことができる。自然、環境、街並み、デザインの美しさなどの外面的なものもあれば、文化や価値観、品性、所作など内面的なものもある。グランドデザインなどと言えば、構想力が想起される。確かな未来像を持った空間づくりという意味でも、「美」はキーワードである。
 近年、周りからどう思われようが“恥”と感じない精神が幅をきかせるようになった。いちいち上げたら枚挙に暇いとまがないが、最近、電車の中で化粧や着替えをする女性も珍しくないと聞く。モラルの崩壊も、美意識、美学の欠如が原因である。
 公正・公平な社会、慈しみ、いたわりあう人間関係、健全・健康な心身、国を誇りにできる日本人、創造力と活力に満ちた逞しい経済、世界に貢献し友好を育み、尊敬・敬愛される外交----。
 「美しい日本」と言う言葉は、期せずして私の思いをすべて包括していた。すなわち、美しい自然はもとより、親子を中心にする家庭、近隣との友愛的結合、さらにそれは愛郷、愛国へと拡充されてゆく共同社会の構築、伝統と文化への愛惜と誇り、そして国際関係の平和と協力等々につながってゆく。

「百年国家の創立」という視点に立て


 国際社会で背筋を伸ばし、胸を張り、国民が誇りにできる「美しく力強い日本」を復活再生するためには、どうしたらよいのか。一世紀の風雪にもびくともしない屋台骨のしっかりした国家、すなわち「百年国家の創立」という視点に立って、逞しく、優しく柔軟な国家に生まれ変わらなければならない。
 国民に対しては優しく、かといって海外からの圧力に屈しない、したたかな外交戦略を展開して、 国益を確保しながら協調関係を築いていく。 時には優しく、時には逞しく、したたかで狡猾、かつ柔軟な国家として、この国を再生する。そうしなければ、グローバル化が急速に進展する現代の国際社会では、生き残りは叶わないだろう。
 外交は、 国力を反映する。日本は経済力こそ立派になったけれども、“人間力”や魂の部分で衰退してしまった。こんな状態では、 まともな外交はなりたたない。落日を目前に控えている今ほど、政治の真価を問われている時はない。
 現在、日本は既に午後四時半を過ぎていると、私は認識している。逢おう魔まが時を迎え、改革が失敗すれば、日本は漆黒の闇へと落ちて行く。小泉総理には、日本の輝かしい前途への道標をしっかり照らしていただきたいと願っている。
 制度的、構造的改革はもとより、現在、長期的な視点でメスを入れなければならない課題は山積している。中でも「日本人の魂の復活」は、改革の根幹・土台となるべき、最大の課題だと考える。
 日本は、これまで長い歴史を通じて物的な資産のみならず、人の輪を大切にした精神的な資産を築き上げる中で大きく発展してきた。
 ところが、昭和二十年を境に、この国は戦前とはまったく異なる出発を余儀なくされた。戦勝国は、日本の良き伝統や文化を否定し、東京裁判史観を押しつけた。折しも台頭してきた唯物史観とあいまって、日本は誇りを忘れ、自虐的な教育が行われてきた。国家を認めない、郷土愛は全体主義につながる、親孝行よりも個人の自由を優先するといった戦後精神文明は、国を否定する全共闘世代を生み出し、今やその子どもたちが社会の中堅になりつつある。
 もちろん、個を軸に文明をつくり上げること自体は悪ではない。しかし、公より個を優先するあまり、利己主義、無責任主義、冷徹な合理主義が大手を振ってまかり通るような世の中になってしまった。
 さらに日本の伝統文化が否定されたため、日本人の共通の価値観が消滅した。戦前は神道と仏教が共存した形で、道徳の規範や価値観をそれとなく共有していた。だが、利己主義を助長してきた戦後文明は、生きていくうえでの共通認識を奪い、人々はバラバラな価値観しか持てなくなっている。個々が分離し、共通の価値観がなくなり、代わって増幅されているのは、欲望に基づくエゴイズムである。そうなれば、自分の欲望の実現を邪魔する存在は敵でしかなく、場合によっては親や兄弟にさえも矛先を向ける。かくして凄惨な事件が日々、新聞を賑わすことになる。
 日本人のアイデンティティー、国の背骨が溶け出している今、日本にとって財政再建や景気回復とはまた違った次元での、最大にして緊急の課題は、日本人の魂の崩壊をどう食い止めるかである。政治の責任は極めて重い。

背骨なき無国籍な日本人が増えている


 日本人の精神がこれほど荒廃してしまった責任は、われわれ政治家にもある。なかんずく、長らく政権を担当してきた自民党の責任は重い。日本人の精神を蝕む教育が行われても放置し、抜本的な改革は何一つできないできた。私はこの反省を踏まえ、鎮守の森を中心とした“ムラ”に象徴される共同社会の良き伝統を再構築し、人や他の生き物に対する優しさを育む教育、人間関係の育成を図っていきたいと思っている。
 戦後六十年近く、日本はアメリカの支配下で新たな土台をしつらえられ、その上に国家を建設してきた。安全保障、教育、治安はなおざりにされ、 経済偏重で世界でも類例を見ない成長を遂げ、 経済的には豊かな国になったが、 それ以上に失ったものは大きかった。 アメリカ盲従により形成された戦後文明は今、日本人の精神の崩壊という形で結実している。われわれの知る日本人とはまったく異なる民族、背骨なき無国籍の日本人が次から次へと生み出され、わが国は基軸も心棒もない国家に成り果てようとしている。
 今、社会全体に蔓延している閉塞感は、景気の後退といった一過性のものではなく、戦後の文明の行き詰まりがもたらした末期的症状であると、私は解釈している。日本の伝統や文化を否定した戦後文明は、過ちであったという事実を認めて、その上で新たな文明を築き上げなければ、日本はこのまま朽ち果ててしまうだろう。

思い切った教育改革の断行を


 国政を担うわれわれ政治家は、過去の反省の上に立ち、襟を正して二十一世紀の日本の姿をはっきりと国民に、世界に提示し、プライドある国家を取り戻さなくてはならない。今なすべきは、戦後の日本を支配してきたアメリカ製の文明から新生日本の独自の文明への大胆なパラダイムの転換である。
 そのためには、アメリカ製の現行憲法や教育基本法の改正はもちろん、戦勝国より押しつけられた歴史観や唯物史観から脱却し、戦後文明をひとまず清算する必要がある。いうなれば、戦後五十九年、アメリカの国益に沿った他力本願の文明、近隣諸国にいたずらに頭を下げる自虐文明から脱却し、自国の利益を尊重する自力本願の新文明、誇りと自信を持てる日本を創立することである。
 「美しく力強い日本」 を復活再生させるためには、教育、安全保障、外交、治安など取り組む課題は多いが、教育は国の未来を決する最重要課題である。未来を託す人間を育成するため、まずGHQ (連合国軍総司令部) のマッカーサーの下でつくられ、与えられた教育基本法を抜本改正し、知識の詰め込みが主体の教育を改める必要がある。
 さらに子どもたちが友情を暖めながら一生の友を得る場をつくり、公立校の全寮制教育の導入や、六・三・三制から六・六制の教育に改めるなどの思い切った教育改革を断行する。そして、 子どもたちに日本の伝統文化に実際に触れさせ、宗教や人間についての理解を深めるとともに、国家に自信を持ち、「自分だけでなく皆で幸せになろう」という共生の精神の育成など、日本人が本来備えていた誇りや魂を蘇らせる人間教育に重点を置かなければいけない。私は、将来に希望を持てる国をつくるためには、骨身を惜しまない。同じ思いを抱いておられる皆さん、力を合わせて頑張ろうではないか。

志し帥すい会の精神を継承する


 私は平成十五年十月十日をもって、江藤隆美前会長の後継として「志帥会」の会長に就任した。志帥会は、責任ある政権与党・自由民主党の中枢として、人材面から政権を支える一方、「日本のために誰かがやらなければならないことは志帥会がやる!」という気持ちを常に忘れず、時には苦言も辞さず、例え批判を受けようと、国家のために正しいと確信したことは最後まで貫き通してきた。私は志帥会の会長として、諸先輩方が脈々と築き上げてきた精神を継承しつつ、今後も行動する政策集団として山積する難題に立ち向かっていく所存である。


小学校上級生の頃はしょっちゅう学校をさぼっていた


 亀井静香氏は、昭和十一年十一月一日、広島県の北東部、中国山脈の山懐の寒村、現在の庄原しょうばら市川北町で生まれた。姉二人、兄一人の四人兄弟の末っ子である。子どもの頃から“静香”という名前に似合わぬ元気いっぱいのガキ大将であった。
 「小学校時代は、川上哲治に憧れる野球少年でした。五番バッターのキャッチャーとして、いつも泥まみれになって野球ばかりしていましたよ」
 小学校時代は勉強嫌いで、向学心というものがまるでなかったが、成績は学年で常に一、二番を争っていた。本来なら先生に褒められるところだが、しばしばゲンコツを喰ったという。
 「喧嘩もしたし、よく学校をさぼりましたからね」
 実家から小学校までひと山越えていかなくてはならなかった。新雪の頃には、子どもの胸の丈ほど雪が積もることもある。
 「そうなると学校まで四時間近くもかかる。上級生になると雪の季節だけではなく、よく途中の峠の地蔵さんの側で弁当を食べ、そのまま学校に行かずに帰ってしまったものです」
 翌日、学校に行くと先生から、「またさぼったな」と思い切りぶん殴られた。
 「三歳上の兄は、成績優秀でとても真面目でした。その分、正反対の私の行状がよけいに目立ったのでしょうね。学校には殴られに行ったようなものでした」
 亀井家は、幕末の頃までは庄原地方の名家の一つに数えられていた。だが、広い田畑や山林も人手に渡り、亀井氏が生まれたころには四反三畝せの土地を耕し、細々と暮らす貧乏農家になっていた。
 末っ子の亀井氏は、村内の公立中学に進むつもりであったが、教育熱心な母親の執拗な勧めもあり、広島市内にある中学・高校一貫教育をしている私立名門進学校の修道中学に進んだ。ところが、修道高校に進んだ亀井氏は、一年の三学期に自ら学校を退学してしまった。
 「学校側が、それまで無料だった通学定期を買うための証明書を勝手に有料にしたんです。ガリ版で抗議のビラをつくって校門の前で生徒たちに配ったら「アカ学生」呼ばわりされたあげくに、ビラ配りをやめないと、退学させると脅された。 若気の勢いで、“いますぐやめますよ”と啖たん呵かを切ってしまってねえ」


女子生徒に笑われ発奮 猛勉強の末に東大に合格


 広島市内の名門私立高校を自主退学してしまった亀井静香氏は、東大法学部に通う兄を頼って上京し、都立大泉高校に編入学した。
 「東京と田舎ではレベルが違うでしょう。正直のところ、まったく勉強ができなかったんです。おまけに広島弁でしょう」
 先生は面白がって、わざと亀井少年に質問をするが答えられない。
 「女子生徒には、けらけら笑われる。ちょうど色気づいてきたころなので、女の子に馬鹿にされないように中学三年の教科書からもう一度真剣に勉強を始めたんです」
 亀井氏は、「もし男女共学の高校でなく、可愛い女生徒がいなかったら、上の学校には行っていなかっただろう」と振り返るが、本人の努力の甲斐があり見事に東京大学文・に合格した。
 だが、広島の生家は、村の中でも下から数えたほうが早いほど貧しかった。親の仕送りを期待できない亀井氏は駒場寮に入り、家庭教師のかけ持ち、夜警、キャバレーのボーイなどのアルバイトに明け暮れ、試験の日以外は、ほとんど教室に顔をださなかった。
 そんな亀井氏が打ち込んだのは、合気道であった。一度はじめたらとことんやらなければ気がすまない性格なのだろう。熱心に稽古に励み腕を上げるとともに、他校の合気道部の学生を糾合し、「日本学生合気道連盟」を結成し、その初代委員長を務めた。亀井氏は、東大時代の青春を日本の古典武道・合気道に没頭し、段位は学生時代に三段を取得している。
 こう書くと体育系の右寄りの学生だったと思われるかもしれないが、亀井氏は退学処分になっていた左翼学生を一週間のハンストの末に救ったというエピソードを残している。アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行ったことに抗議し、ストライキを指導して退学処分になっていた全学連の幹部のために一肌ぬいだのだ。
 「彼は駒場寮の仲間でもあったし、なんとか退学処分だけは撤回させたかった。水爆実験反対は、当たり前でしょう。右翼も左翼も関係ありませんよ」。その学生は、停学処分で済むことになった。ドクターストップがかかるまで、一週間に及ぶ亀井氏らの断食行動が功を奏し、学校側が折れてきたのである。


「俺が警察を強くしてやる」と民間会社を辞め警察庁へ


 東京大学の経済学部を卒業した亀井静香氏は、大阪に本社を置く別府化学工業(現・住友精化)に入社した。当時、安保騒動のまっただなかで、デモ隊の国会乱入など世相は騒然としていた。
 「私は兵庫県の西宮の独身寮でテレビを見ていたんですが、憤慨しましたよ。デモ隊のやりかたにではなく、対デモ隊との攻防で警察があまりにも弱く好き放題にされていたからです。自分は単純な性格なもんで、“オレが警察に入って強くしてやろう”と思って会社に辞表を出してしまいました」
 別府化学に入社して、ちょうど一年目の昭和三十六年三月のことである。会社を辞めてしまったので金はない。就職の意思がないというので失業保険も一か月でストップされてしまった。そこで、古巣の東大合気道部の道場に布団とミカン箱を持ち込み、アルバイトをしながら猛勉強を開始した。
 この年の七月、警察上級職試験の小手試しのつもりで、まず国家公務員試験を受けてみた。生まれて初めて憲法、行政法、刑法などの法律書を買いこんでのにわか勉強だったが、なんと三番の成績で合格した。当然あらゆる役所から声がかかった。中でも通産省が熱心だったが、当初の目標であった警察上級職試験に挑戦。こちらも七番の成績でパスし、翌年四月、念願の警察庁入りを果たした。
 亀井氏は公安第一課での見習い期間を終え、鹿児島県警本部監察室長、鳥取県警本部警務部長、埼玉県警本部捜査二課長などを歴任したが、豪放磊落らいらくな性格とキャリア組にありがちなエリート臭さがいっさいないため、行く先々で部下の信望を集めた。
 亀井氏は鳥取時代に、鳥取県議であった社会党の野坂浩賢氏と親しくなった。当時、彼は自衛隊美保基地反対闘争を指導するなど、党の闘士として知られていた。人の運命はわからぬものだ。このときの亀井、野坂両氏の信頼関係が、のちに自民党と社会党が組むという前代未聞の連立政権を樹立する大きなキーポイントとなった。
 埼玉県警時代は、捜査二課長として四十人の部下を率いて、高島屋の大宮進出をめぐる疑惑や住宅供給公社の黒い霧といった贈収賄、横領など数々の汚職事件を摘発。埼玉県警捜査二課は、警察庁長官賞のほとんどを独占した。


「浅間山荘事件」では最前線の装甲車で指揮をとる


 埼玉県警本部二課長として勇名をとどろかせた亀井静香氏は、その実績を買われて昭和四十六年九月、本庁に呼び戻された。
 折りしも、極左過激派集団の爆弾事件が続発していた。亀井氏の警察庁での役職は、警備局調査官室の課長補佐。亀井氏が本庁に戻ると同時に血生臭い事件が相次いだ。
 成田空港における三人の警察官殺害、土田国保警視庁警務部長宅爆破事件、新宿の追分交番クリスマスツリー爆弾事件、連合赤軍の仲間同士のリンチ殺人事件等々。
 亀井氏は、抜群の行動力と鋭い勘、卓越した統率力で部下を掌握し、頻発する事件の捜査指揮とその防止に情熱を注いだ。
 年が明けた昭和四十七年二月、あの浅間山荘事件が勃発した。連合赤軍が軽井沢の河合楽器保養所「浅間山荘」の管理人の妻を人質に立て籠った事件である。そのとき、最前線の装甲車に常駐し、陣頭指揮をとったのが亀井氏であった。
 「浅間山荘事件で逮捕した連合赤軍の森恒夫らを取り調べたが、“革命のためだ”と言ってまったく罪の意識がなかった。彼らの唯銃主義の貫徹という考えは間違っているが、彼らは彼らなりに純粋に国のことを思っていた。森のような若者が、どんどん極左活動に走っているのは政治にも責任がある。もっと若者たちに夢と希望を与えられる社会にしなければいけないと思いましてねえ」。
 亀井氏は、警察官から政界へ転出した動機をこう回想する。
 この人が警察官僚として最後の五年間を務めた警備局調査官室は、のちに警察庁長官や警視総監になった人が多く、いわばエリートコースであった。
 亀井氏は上司からも信頼され、直属の部下はもちろん、統括している第一線の公安刑事たちからも大変畏敬され、慕われていた。
 「警察庁に残っていれば長官になれたかもしれない」と多くの警察関係者は言うが、本人の政界入りの決意は固く、事前に誰にも相談せず、思い切って十五年間務めた警察庁に辞表を出した。昭和五十二年十一月、警備局調査官室課長補佐のときである。


「狂気の沙汰」と言われながら徒手空拳で激戦区に挑む


 「将来は警察を担って立つ男」という評が出ていたにもかかわらず、亀井静香氏は警察庁を退官し、早速、郷土の広島県庄原市に帰って草の根運動を展開する。
 「初めは周囲の人たちから“狂気の沙汰だ”と言われましたよ。地盤、看板、カバンもない文字通り徒手空拳で初めから国政選挙に出ようとしたのですから」
 その時、亀井氏は、退職金の三百五十万円しかなかったという。
 当時の広島三区は、自民党の宮澤喜一、佐藤守良、立石定夫、社会党の福岡義登、公明党の古川政嗣氏ら錚々たるメンバーが磐石の組織を固めていた。
 「初めは泡沫候補と見られていましたが、そんな私を支えてくれたのは竹馬の友でした。小学校時代の同級生や同窓生が中心になって手弁当で各地を回り、支持者の輪を広げていってくれたんです。 本当に涙が出るほど有り難かったなぁ」
 亀井氏は、地元の政治家や長老たちに相手にされないまま、いきなり衆議院選挙に打って出た。「県会議員からスタートしても遅くはない」といわれたが、本人の国政への志は揺るがなかった。亀井氏の熱意と行動力は次第に地元民を揺り動かし、そのうち三区の中小企業主、農業者、労働者など多くのボランティアが選挙運動に加わった。その火は、やがて燎原の火のように選挙区全体に広がっていった。
 当然、地元の有力者や他陣営は猛反発し、「亀井を潰せ」と、さまざまな圧力や妨害を加えてきた。「亀井を応援したら商売をできなくしてやる」、「亀井を応援するなら会社をクビにしてやる」などと、取引き先や勤め先の社長から脅された者も多かったという。
 亀井氏は、厳しかった当時の状況をこう述懐する。
 「私がある建設会社にお願いに行ったら“お前が来ると縁起が悪い”と怒鳴られ、どんぶり一杯もの塩をまかれたこともありました」
 だが、本人は選挙運動の終盤戦に入った頃には、絶対に当選できると信じていたという。
 「新聞記者にも当選圏外と言われたけれど、私は広島三区の有権者が全員二重人格者でない限りは六万票やそこらは取れると断言しましたよ。 それまで、 どんな山奥でも有権者の家を一軒一軒くまなく訪ね、 実際に一人ひとりと顔を合わせていましたからね」


竹馬の友らに助けられ初陣を勝利で飾る


 亀井静香氏が警察庁に辞表を提出してから、ちょうど二年目を迎えた昭和五十四年十月七日、総選挙の投票が行われた。社会・公明、民社の不信任案を受けて、大平正芳総理が衆議院を解散した際の選挙である。
 人口の少ない郡部は即日開票、都市部は翌日開票であったが、先ず宮澤喜一氏が当選確実となった。
 さらに自民党の佐藤守良、民社党の岡田正勝、公明党の古川雅司の各氏が当確を得た。残り一議席をめぐって自民党、社会党の候補と亀井氏の三人が鎬しのぎを削ったが、開票率九〇%になってもなかなか当確が出なかった。
 しかし、 選挙区の有権者の家を全戸数訪ねるなどの努力が見事に実り、亀井氏は初陣を見事に勝利で飾ることができた。当時の広島三区は全国でも有数の激戦区であった。 定員五名のうちの最下位当選であったが、ほぼ六万票に及ぶ票を獲得し当選できたのは奇跡に近い。
 「それも、死に物狂いで私を支えてくれた皆さんのおかげです。そんないい人たちにめぐり合えたのは、祖先がよほど良いことをしてくれたからだと思います」
 亀井氏は、目の前に立ち塞がる鉄壁が次々と崩れていき、勝利をもたらしてくれたのも「祖先のおかげだ」と、時間の許す限り墓参りを続けている。
 政界に転じてからも亀井氏は、合気道六段のタフネスぶりと持ち前の行動力をもって、行革旋風の中で、一貫して「弱者にしわよせがない行革」 を求め、政府に、財界にかみついてきた。
 亀井氏といえば、どうしても「国家基本問題同志会」の座長としての過激な言動が思い浮かぶ。マスコミや多くの政治家が避けて通ってきた諸問題に真っ向から対峙し、時には党を震撼させるような行動にも出た。また、警察庁出身ということもあり、常にタカ派政治家のイメージが付きまとっているが、大変な理論家であり政策通である。それも、常に国民の目線で考えている。
 例えば運輸大臣当時、アルバイトスチュワーデス導入に異議を唱え、格差解消に努めたことは記憶に新しい。また、建設大臣時代に「脳死法案」 の採決の際、人の命の尊さを主張して議場を退席し、投票を棄権した。さらに、「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長として命の尊さと、死刑制度の廃止を訴えるリベラルな面も兼ね備えている。「豪腕」の源は、実は深い思いやりと信念なのである。


趣味の油絵は個展を開くほどの腕前


 亀井静香氏には、常に豪腕、旧来型、こわもて、そんなイメージが付きまとう。また、小泉改革の「抵抗勢力」の代表的人物としてマスコミに取り上げられることが多いが、この人は常に「この地球の生きとし生けるものの幸せのため、政治が滞ってはならない」を信条に政策を考え、その実現に腐心している。
 亀井氏は、地方重視、福祉重視の「大きい政府」を目指すと言っているが、党政調会長在任時、無駄な公共事業の見直しを断行し、連日の深夜に及ぶ激論の末、二兆七千億円の削減を行っている。その中には、本人の地元の大事業も含まれていた。
 亀井氏は政調会長に就任した時、他派閥の亀井久興氏(元国土庁長官)を会長代理に据えた。二人の祖先は、室町・戦国時代の大名・尼子氏に仕えた武士であった。
 静香氏の祖先は尼子氏の筆頭家老の亀井吉助で、久興氏の祖先は、その弟の真十郎という槍の名人である。
 「尼子氏が滅亡すると吉助は“二君に仕えず”と山を越え、神官となり帰農したが、一方、槍の名人真十郎の子孫は、関が原の戦いを乗り越えて、 津和野四万三千石の藩主になった。 亀井久興さんは殿様の末裔、 こちらは百姓の末裔ですからね。 せっかく政調会長になったのだから、 今度は彼を私の下で使って本来の兄弟関係の姿に戻そうと思って会長代理にしたんですよ」
 亀井氏は、「四百年かかってやっと主従関係を逆転することができた」と冗談まじりに話していたが、二人の仲はすこぶる良好である。ともに 「日本の伝統文化を見つめ直すことが、混迷する日本を再生する鍵になる」と伝統文化の復興を呼びかける。
 亀井氏が、いま一番はまっているのは、油絵を描くこと。四年前から習いはじめ、いまでも月に一度は寸暇を割いて先生に指導を受けているそうだ。
 「いまは忙しくてなかなか時間がとれないが、絵を描いているときは、ほかのことを忘れて集中できるので、いい気分転換になるんですよ」
 多忙の身の亀井氏は、アトリエに籠もる時間がとれないのを残念がるが、コツコツと描きはじめた趣味の油絵は、個展を開催するほどの腕前だ。 政策集団「志帥会」会長。著書に『ニッポン劇的大改造』『繁栄のシナリオ』『死刑廃止論』などがある。参議院議員の亀井郁夫氏は実兄。座右の銘は「至誠一貫」。連続当選九回。(中島幸治)

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