活動実績

新聞・雑誌等での亀井静香の発言

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2005.3.8◎自由民主
Face to Face 対談シリーズ
衣笠祥雄さん

日本人の美しい魂をよみがえらせたい(亀井静香)
とにかく毎日試合に出るのが楽しかった(衣笠祥雄)


 昨年、衆院議員勤続25年を迎えた亀井静香議員は、その心境を「人生67年、衆議院勤続25年、功無きを恥ず、今からの生きざまで総括する」と語り、ますます意気盛ん。
 現役時代、2215試合連続出場という世界記録を達成した鉄人・衣笠祥雄さんは、「振り返ってみたら達成していた」と、その人柄そのままにあくまで謙虚。“広島”“絵”つながりで旧知のお二人に、それぞれの熱い生きざまと若者へのエール、さらには共通の趣味である油絵について語り合っていただいた。


グサっときたファンの苦言(衣笠)

亀井 私自身にとって、現役時代の衣笠選手はあこがれであり、赤ヘル軍団の活躍は、故郷を離れて生活している身にとっては心の支えでした。特に、衣笠さんの存在は、当時も今も、広島県民だけじゃなく、国民にとっても一つの生きざまとして大変励みになっています。
衣笠 ありがとうございます。
亀井 広島カープが上京すると、まず川崎球場で試合をする。次に、神宮球場、後楽園球場(現・東京ドーム)に来る。三連戦ほとんど見ましたよ(笑)。
衣笠 今で言う追っかけですね(笑)。
亀井 野球、ホントに大好きだったから。小学校のとき、おふくろが縫ってくれた布製のグラブと、木で削って作ったバットで野球をやってた。衣笠さん、一つ威張らしてもらっていい?
衣笠 どうぞ、どうぞ(笑)。
亀井 東大寺代、学内のクラス対抗の試合で、弱い東大野球部にあって、当時、6大学リーグのリーディングヒッターだった渡辺という選手と対戦して、ピッチャーのおれは一本のヒットも打たせなかった。口の悪いやつは、全部フォアボールだったんだろうなんて言うけど、これ本当なんだよ(笑)。
衣笠 それはすごいや。
亀井 野球は最高の師でした。
衣笠 僕にも、ファンこそ師であるというような思い出があります。26、7歳のころ、食事をした後、たまたまある店で飲んでいると、一人のカープファンから「衣笠さんのそういう姿は見たくない」って言われたんです。「少なくともシーズン中は、同じ酒を飲むなら、家で飲んでくれ」と。彼はプロ野球選手というのは、自分たちに代わってバッターボックスに立ち、マウンドで投げる存在であってほしい、と言いたかったのだと思います。これはグサっときましたね。それからは、シーズン中は飲みに出歩かなくなりました。
亀井 衣笠さんらしい。おれにはとてもできないな(笑)。

努力の中から楽しみが生まれる(亀井)


衣笠 先生は、どうして政治家になろうとされたのですか。
亀井 おれはね、警察庁に15年おったけど、政治家になろうなんて気は全然なかった。当時、三菱重工爆破事件、日本赤軍テルアビブ空港事件、連合赤軍あさま山荘事件など、テロ、ゲリラが猖獗(しょうけつ)を極めており、当時、私は課長補佐として現場で指揮を執っておりました。
 連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした。ただ、トロツキズムという間違った思想に取り付かれていた。警察というのは社会のゴミを掃除する役目なんですが、ゴミを少しでも出さんようにするには社会の仕組みを変えないといかん。それには政治家にならんとどうしようもないと、警察官僚を辞めたんです。
衣笠 周りは反対したでしょう。
亀井 もちろん上司や友人は大反対で、地盤も看板もカバンもない戦いに、350万の退職金を握り締め、自分で選挙ポスターを張って回りました。囲む会に一人しか来ないこともあって、落選必至なんて言われたが、奇跡の当選をやっちゃった(笑)。衣笠さんと同じで、死に物狂いの一念でやったから勝てた。自分で言うのもなんだけど、日本のため、地元のためにやるんだと、動機がそもそも違ってましたからね。
衣笠 僕も困ったときはいつもその動機の時点に帰るんです。プロになって二年間は、自分で描いていたものが出せなくて、「何でプロ野球に入ったんだろう」と自問自答しました。で、自分のセールスポイントは何だろうって考えたとき、僕には何もないというのが答えでした。それで三年目に、僕の野球の原点である、中学の野球部のとき、ボールを遠くに飛ばす楽しさということを思い出しました。つまり長打力です。それからはバットをブンブン振り回してよく三振したので、やれ扇風機だの、クルクル人形だのと言われました(笑)。でも、それが自分の生命線になって、それからは20年間ずっと試合に出し続けてもらった。あのとき、自分のセールスポイントは何かということを考えなかったら、僕なんかとっくに整理されていたでしょうね。
亀井 衣笠さんの、2215試合連続出場という世界記録は誰も破れないんじゃないの。
衣笠 僕は記録のためにやったことはないんです。振り返ったら達成していたという感じですね。ともかく、毎日試合に出るのが楽しかっただけ。
亀井 好きなことを楽しんでやったことが記録につながったというわけだ。衣笠さん、努力の中から楽しみが生まれるんだという姿勢を、今の子どもたちにも大いに伝えてください。
衣笠 微力ながら、頑張らせていただきます。
亀井 衣笠さんは努力の人です。長嶋さんなんて、あんまり努力せんで、あそこまで行っちゃった。
衣笠 いや、あの人には練習する姿を絶対に見せないぞというダンディズムがありました。僕なんか恵まれているのは、あの当時、王さん、長嶋さんという素晴らしい先輩を見て育ったということです。 あの人たちに少しでも追いつきたいという思いがありましたね。前の人の成功と失敗をみて、少しでも前へ進もうとする。それを教えてくれるのが歴史というものです。
 ところで先生が目標とした政治家は誰でしたか。
亀井 戦後の政治家をあげると当たり障りがあるから(笑)。大塩平八郎、西郷南洲、世界的にはチェ・ゲバラですね。自らを捨て、苦しむ民衆の救済に身を挺した彼らこそ、本当の政治家の姿だと思う。アメリカのモンデール駐日大使(当時)がおれの部屋に来て、ゲバラの写真が飾ってあるのを見てびっくりしてた。
衣笠 それはびっくりするでしょう(笑)。
亀井 それにしても、今の日本は本当にいかん。この状態を打破するためには、ある意味で破壊があっていいと思う。日本人の美しい魂をよみがえらせるために、今こそ心の改革に取りかかる必要があります。金がすべてというのではなく、みんなで協力し、みんなで新しいものを築き上げ、みんなで幸せになるんだといううねりをどう作っていくか。そのためには、自民党がもっとしっかりせないかん。
衣笠 現役を離れ、外から野球を見るようになって、いちばん感じるのは、みんな確かに上手(うま)くはなってきたけど、ファンに訴えるような泥臭い選手が少なくなってきましたね。
亀井 政界でも、なかにはいいのもおるんだけど、与野党問わず、まあチルドレンだな。金の匙、銀の匙で、票田も資金も引き継いで、まるでお客さん付きの商店を継ぐように、何のために政治家になるのかという心の原点がない。衣笠さんや私らとは違うんだな。

描きかけの絵が、おれを呼ぶんだな(亀井)


亀井 ところで、衣笠さんも絵をなさるんですよね。
衣笠 僕のは、先生のように本格的ではなく、絵の具を塗りたくるだけ(笑)。友人に絵描きがいまして、「おまえはいつも動いてばかりだから、何かじっとしてすることをやってみろよ」とアドバイスしてくれたのです。で、始めてみると、絵の具を塗るのは色を作ることであり、絵の具と遊ぶのが楽しくなってきたんです。
亀井 おれは塗るんじゃなくて、投げつけてる(笑)。仕事をガンガンやっている最中に、ふと描きたくなって、10分でも20分でも絵の具を投げつけることが多いですね。この世の嫌なことと一切関係なく、一時的に、絵の世界に埋没できるからね。
衣笠 私も、忙しいときのほうが、絵の具を塗りたくっています。むしろ、時間があるときのほうが、絵に集中できないことってあります。
亀井 描きかけの絵が、おれを呼ぶんだな。あそこをこう描いてくれと。だから、すっ飛んで行くわけだ(笑)。まだまだ下手だけど、絵を始めてよかったと思いますね。今度、衣笠さんの絵、見せてくださいよ。
衣笠 駄目ですよ、僕の絵は絶対に表に出しません。死ぬ前に、全部焼却しようと決めているんです。あいつは、こんなに下手くそだったのかって思われるに決まっています(笑)。
亀井 今、5、60点ほどあるかな。人には、この世を去るとき、愛した人に一幅ずつ差し上げるために描いている、と言っているが、なにせ愛した人が多いからまだまだ足りない(笑)。
衣笠 そうか。そういう手もありますね。
亀井 今日は、衣笠さんの知られざる生きざまをお聞かせいただき、楽しかったな。
衣笠 最後になりましたが、昨年は永年勤続表彰、おめでとうございます。25年をかけてご経験なされたことを通じて、亀井静香とはこういう政治家であるという集大成、ぜひ、見せてほしいです。
亀井 ありがとう。いつの間にか25年だからね。ご期待に沿えるよう、頑張ります。

亀井静香(かめい・しずか)
衆議院議員/昭和11年11月1日、広島県生まれ。東京大学経済学部卒業。在学中は、家庭教師、キャバレーのボーイ、夜警などのアルバイトで生活費を稼ぐ。60年安保闘争で警察のふがいなさに腹を立て、「おれが警察を強くしてやる」と警察庁入庁を決意。入庁後、極左事件に関する初代統括責任者となり、成田空港事件、連合赤軍あさま山荘事件、日本赤軍テルアビブ空港事件等を陣頭指揮。52年、退官。54年、衆院選挙初当選。その後、運輸大臣、建設大臣、党政調会長などの要職を歴任。“ドンガメ”の愛称で親しまれるタフな行動派。亀井郁夫参議院議員は実兄。座右の銘は「至誠一貫」。広島6区、当選9回。

衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)
野球解説者/昭和22年1月18日、京都府生まれ。平安高校で、捕手として甲子園に出場。40年、広島東洋カープに入団、内野手に転向。その後、山本浩二選手とともに、カープの主力打者として活躍、赤ヘル軍団の黄金期を築く。62年6月、ルー・ゲーリックの世界記録2130試合連続出場を更新して、選手生活23年で2215試合連続出場という大記録を達成し、国民栄誉賞を受賞。盗塁王、最優秀選手賞(MVP)、正力賞、打点王などにも輝き、その鍛え抜かれた肉体と不屈の精神力は「鉄人」と称えられ、多くの人々に勇気と感動を与えた。背番号3は、広島東洋カープの永久欠番。平成8年、野球殿堂入り。

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