活動実績

新聞・雑誌等での亀井静香の発言

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2005.3.15◎月刊自由民主3月号
特集 立党50年企画
政権奪還への道

対談
毅然と対決、死闘十一か月の攻防


政治は生きものである以上、それを預かる政党の浮沈興亡は避けがたい。政党人たる者の真価は、党の隆盛期よりもむしろ大家(たいか)倒れんとする時、それをよく支え得るかーその気概にかかっていると言っても過言ではない。わが党五十年を振り返る時、野党転落の最大の窮地に、気骨ある政治家たちが一丸となって踏んばり、身命を賭して政権奪還を成し得たこの現実を決して忘れてはならない。叛服(はんぷく)常ない政界にあって、人の道を守り、正義を貫き、奮闘した二人の政治家・森喜朗前総理と亀井静香元党政調会長が、ここ本誌に「時代の証言者」として、初めて当時の死闘を生々しく語った。この歴史に刻まれた事実は、明日の政治の糧(かて)として多くの教訓と示唆と党魂燃ゆる感動を次世代に託している。


■出席者
前内閣総理大臣、元党幹事長、衆議院議員 森喜朗
元党政調会長、元建設大臣、衆議院議員 亀井静香


党名の重みをひしと感じる日々


森喜朗 今年の十一月十五日で自由民主党は、ちょうど立党五十年を迎えます。正に大きな節目となる年ですが、振り返れば立党以来、その党の名前を守って来ているのは共産党を除くと自由民主党だけです。しかし、かつての共産圏であったソ連邦は消滅してしまい、いまでは共産党の名は文字通り有名無実化し、その看板はすでに化石となった観すらする。政党の消長が激しい今日の政界にあって「自由民主党」という党名がなお健在であることの意味は非常に重いと思う。

亀井静香 そうです。自由主義と民主主義を根幹に据えた国家運営によって日本を主導するー。この理念のもとに参集した多くの先輩、同志たちが手がけた自民党のこれまでの政策が、その大筋では決して間違っていなかったと、私は確信しています。我が党の半世紀は敗戦により焦土と化した戦後の日本の発展の歴史そのものといっていいでしょう。国民の期待に応えて、政権を担当してきた我が党は、軽佻浮薄な流行に迎合し、その時々の風に乗って離合集散を繰り返す昨日今日にできた政党と違って、伝統の重み、名前の重み、それは国民がいちばんよく知っていることですよ。

 自民党が野党に転落して間もなく十二年になるんだなぁ、あのとき、うちの若手議員たちが「自民党の名前を変えろ、自民党のマークも変えろ」と大騒ぎをして党に党名改正小委員会まで設置した。

亀井 平成五年です。七月に行われた第四十回総選挙で議席の過半数が取れず、我が党は結党以来三十八年目にして初めて野に下った。その途端に「政治改革だ!」と都合のいい理屈をつけて自民党から脱走し、細川連立政権へとなびいていく者が続々と出てきた。残った若手は若手で、自民党のイメージを悪くするような年寄り議員は、皆やめろと大騒ぎする。派閥は解散しろ、老害政治はいかん、最高顧問会議は廃止しろ、その挙句に「自民党の党名を変えろ」とまでいって、騒ぎだしたものだ。

 マスコミも細川政権は今までとは違った「フレッシュ内閣だ」ともちあげ、世論もその一点に向けて誘導されているようなところがあった。何しろ、そのころ細川政権の支持率は歴代最高の七〇%を超し、我が党は過去最低の二五%だった(笑)。当時、細川連立政権は社会、新生、公明、日本新党、民社、新党さきがけ、社民連、民主改革連合の八党派からなる「八頭立ての馬車」といわれていた
 しかも、第五党から総理が出るというおかしな政権で、政策の整合性も何もなく、ただ「政治改革」のスローガンだけを接着剤にした政権でした。要するに「非自民」であれば何でもいいということでくっついた政権だが、しかし世論調査の支持率は高かった。

亀井 我が党議員はボロボロこぼれ出し、連立政権に行ってしまう。このままでは自民党は消えてなくなるんじゃないかと心配になるくらいに…。

 当時、国会対策委員長だった小里(貞則)さんも話していましたよ。国対委員長室で「頑張りましょう」と誓いながら一緒にラーメンをすすった仲間が、その翌日には離党していったと(笑)。

亀井 当時は、笑いごとではなかった。

 そう、「こっちの水は甘いぞ、そっちの水は苦にがいぞ」と、比例区の候補は新生党にどんどんとられるわ、まさかと思った連中もヒョコヒョコ幹事長室に離党の挨拶にやってくる。出て行くなら勝手に出ていきゃいいものを党内の平河クラブでわざわざ、「われわれは自民党を出ていきます」と記者会見までやっていた連中もいた(笑)。


連立政権追及に最強の布陣


亀井 野党に転落したことは、予想以上に党内を動揺させましたね。

 あのとき、党を出ていくタイプが三つあったんですよ。本当に心から小選挙区制にしなきゃいかん、政治改革を行わなきゃいかんと純粋に燃えている連中が一つのタイプ。もう一つは、野党になってしまった自民党はもうあかんわ、早いとこ向こうに行って甘い汁を吸った方がいいと、何か適当な理屈をつけてぞろぞろ出ていったタイプ。もう一つは、ポスト細川に渡辺美智雄先生(元副総理)を担ぎ出そうと画策をしたり、最後は海部(俊樹)総裁までを引き込んだ、いわゆる新生党の小沢さんの攻略にひっかかったタイプがあったが、とにかく日を追うごとに櫛の歯が抜けるように離党者が相次いだ。あのときは、「このまま黙って手を拱(こまね)いていると、自民党そのものが潰れてしまう」という、ものすごい危機感がありましたね。

亀井 党内には、「しばらく野党生活を経験して、党の体質を抜本的に改善してから政権奪還を目指せばいい」といった意見もあったが、私も森先生の言われるように、このままでは「座して死を待つに等しい」と思いましたよ
 それで当時、幹事長だった森先生と何とかせにゃいかんというので、あれは十一月か十二月だったでしょうか。「こう脱党者が増えれば、逆にこちらから城中に忍び込んで、殿(細川総理)の首を取る以外にはない」ということになり、私は森幹事長から、その密命を受けた。

 そう、この際、何でもやってくれと…。

亀井 森先生は太っ腹なんだ。党のカネを自由にいくらでも使えと言ってくれた。それで勢いづいて「打倒細川連立政権」へと猛然と突き進んだ(笑)。

 警察官僚出身の亀井先生は、細川首相自身に係る、いわゆる佐川急便などの疑惑を調べ上げるとともに、社会党の左派を取り込む工作に骨を折って下さったが、本当に見事なものでしたよ。

亀井 いや、いや、総大将の森先生の要所、要所をピシッと押さえた腹の座った采配ぶりこそ立派でした。森幹事長はじめ党執行部は、予算委員会の理事に強烈な布陣を敷いて、細川内閣を徹底的に攻めまくりましたね。

 予算委員会はラジオやテレビで中継されるので、我々野党にすれば政府追及と自民党の存在を世に問う絶好の見せ場です。衆院予算委員会の筆頭理事に深谷隆司さんを起用したのは、河野洋平総裁と私と国対委員長の小里先生とが話し合って決めたんです。当時、越智通雄さんが筆頭理事をやられていたが、彼は紳士で与党への攻撃ぶりにいささか迫力が欠けるので、申し訳なかったが小里先生にお願いして雄弁であり武闘派の深谷さんに代わっていただいた。体も大きく迫力があり、議会では論理的に相手を追及するし、押しも強い。まず正面の戦線、予算委員会で最強の布陣を敷きました。

亀井 あの人は都議会時代には野党で、美濃部(亮吉)知事に果敢に論戦を挑んだ猛者(もさ)だったそうですね。我々みたいに長く政権政党にいた者は、最初はなかなか与党ボケがなおらず、野党ということを忘れてつい法案をどう成立させたらいいのか、そればかり考えてしまう(笑)
 それから、予算委員会の理事には衛藤征士郎さん、野中広務さん、桜井新さんらが、あたりました。

 連立与党と徹底的に闘うぞという、こちらの意思表示でもあったわけです。野中さんも京都の府議会時代は野党議員として、共産党王国といわれた蜷川府政の激しい攻撃に一歩もひるまず戦い続けた気骨の政治家です。このときの予算委員会の理事は、いずれ劣らぬ筋金入りの猛者ばかりでした
 最初は自衛隊の存在を認めない社会党の閣僚を追及した。平成五年の年末には突然、細川内閣が打ち出した「コメの自由化問題」を捉えて、その反対決議を断固行えと、大号令を発し、連立与党を揺さぶった。


コメの自由化問題で連立与党にヒビ


亀井 しかし、細川内閣はウルグアイ・ラウンド(ガット・多角的貿易交渉)で、ついにコメの市場開放受け入れを表明してしまったわけだ。コメはあくまで国産米で自給するというのが以前からの国会決議でした。しかも細川首相自ら行ったコメ輸入反対声明を反古(ほご)にしての、なし崩し的な市場開放だったので、全国のコメ農家から一斉に非難の声が上がった。社会党はコメの自由化に反対だったので、離脱してくれればいいと期待したんだが、まだこの段階では連立政権に留まっていた。

 コメの自由化は連立与党内でも足並みが乱れていた。とくに社会党は明らかにコメの自由化には反対の姿勢を見せていたから、我々はそこらをうまく突いた。輸出国に対して、安定供給の責任をまったく負わせていない杜撰(ずさん)な自由化などとんでもない。コメの自由化問題では、私も当時の橋本(龍太郎)政調会長と官房長官で新党さきがけの武村(正義)代表のところに直談判にいきましたよ。 

亀井 また、細川内閣は突然、真夜中に「国民福祉税」構想を発表した。

 あの案は、細川さんが税率七%については「腰だめ」の数字だと説明していたように、その根拠もはっきりしなく、与党の社会党も不快感を見せていた。国民からも大反発を食らって発表した翌日に撤回してしまった
 そう、そう。あのとき小里先生は、「かくも大きな税制の根幹をなす提案を深夜の与党会議で突然発表し、すぐに撤廃するなど前代未聞の大混乱、政府不在だ」と、例の■小里節■で国民福祉税の白紙撤回を激しく批判追及し、ここぞとばかり連立与党を攻めまくっていたが、あれは実に見事なものでした。

亀井 その前に「椿発言」事件がありましたね。日本放送連盟の会合で、テレビ朝日の椿貞義取締役報道局長が、我々が負けた総選挙中の報道を振り返って、「非自民政権が生まれるように報道を画策した」と受け取れるような発言をした…。

 そんなこともあったなぁ、とくに選挙となれば、どの政党の候補者も同じ土俵で競い、国民による公平な審判を受けなくてはならない。テレビという大きな影響力があり、国民に強力なインパクトを与える媒体が、公共の電波を使って特定の政党を狙い撃ちするのは言語道断です。言論の自由との兼ね合いもあり、この種の問題は追及しにくいが、我々は党の調査会や衆議院本会議で徹底的に追及した。結局、椿氏は非を認め辞任する羽目になったが、この事件を境にして細川政権にも影が差してきたように思う。

亀井 勢いづいた我々は、いよいよ■殿の首取り■に突入する。

 あのとき、亀井先生には大いに働いていただいた。 

亀井 いや、いや、今、議席を失っているが、松永光さん(元蔵相)たちも頑張ってくれたんですよ。

 元検事だった松永さん、それと参議院の服部三男雄さんが最初に、「細川首相に疑惑あり」と指摘した。二人とも法曹界の出身で筋道がよく分かっているから…。


史上最強の野党、細川疑惑を糾す


亀井 細川疑惑では、森司令官の下に一糸乱れず攻めまくった。表で激しい追及をしながら、裏でもいろいろ新たな証拠を調べ上げるというように、実にチームワークよろしく、表裏一体となって動きましたね。

 我が党は「細川総理の疑惑に関する調査特別委員会」を設置して徹底的に追及した。

亀井 国会議事堂二階にある自民党幹事長室の部屋に「細川政権糾弾本部」を置いてドンパチをやりました。

 あのとき糾弾本部の看板を掛けようとしたら、「議事堂内にその種の看板を掲げるのはいかがなものか」と、事務方に猛反対されましたよ。自民党本部にならどんな看板をかけようと自由だが、院内に掛けるのは好ましくないといわれたが、私の独断で掛けさせてしまった。この部屋は、ちゃんと員数配分によって自民党が借りた部屋だから、品格さえ失わなければ何の看板を掲げようと自由じゃないかとね。狙いは、こちらの闘う姿勢をはっきり連立与党に見せつけるためでした。

亀井 実際に疑惑解明に誠意のない態度を取り続ける細川さんを、入れ替わり立ち替わりどんどん攻めまくったものです。

 あのとき、小里先生は大きなパネルを持ち込んで、テレビカメラの前で徹底的に追及していた。「佐川からカネは借りたのか、借りなかったのか」「返したのか」「領収書はそろっているのか」。我々が国会でガンガン追及するたびに細川さんの答弁は二転三転し、答えに詰まる場面が増えてきた。

亀井 下野した当初は与党ボケしていたが、その頃になると自民党は「史上最強の野党」になっていた(笑)。行け行けどんどんと追及の手を緩(ゆる)めず、その一方で細川さんにNTT株を仲介した証券コンサルタントの藤木周蔵氏を温存させておくという高等戦術も使った。みんな命がけでしたからね。私は本当のところ、人のあら探しはするのはあまり好きじゃないが、森幹事長に尻叩かれ、同志といろいろ走り回ったら結構うまくいった。松永さんたちも、細川さんの地元の熊本まで調査に行き、国会は細川疑惑追及一辺倒になっていった。

 そう、自民党の用意周到で果敢な攻撃が功を奏して、ついに平成六年四月初め、細川さんは辞任を表明した。我が党の疑惑調査特別委員長を務めて下さった松永光さんや、予算委員会の筆頭理事の深谷隆司さんらには、本当に頑張っていただいたと思っている。改めて感謝申し上げたい。


相次ぐ連立離脱と細川氏の政権投げ出し


亀井 そろそろ細川政権の末期が近づいてきた頃だが、細川連立政権の通産大臣をしていた熊谷(弘)さんが、ぜひ私に話がしたいと連絡があったので会ってみた。そしたら、赤坂の日商岩井のビルにあるレストランでご馳走してくれて、「あまりガンガン追及するのは勘弁してくれ」と頼まれたが、「駄目だ、勘弁ならない、こちらは細川さんを助ける義理はない」と、はっきり断りましたよ
 その少し前に私はやめろといったんだが、兄貴(亀井郁夫参院議員)が広島県知事にどうしても出るという。いろいろ経緯があったが、兄貴は、当時の細川政権の与党の統一候補で出ることが決まったので、県政記者クラブで立候補声名文を読み上げた。しかしその後、細川さんから横槍が入り統一候補を外され、負け戦を覚悟で知事選を戦わざるを得なかった。そんな経緯もあったので熊谷さんの頼みを蹴飛ばしてまったんだよ。細川政権が総辞職したのは、それから五日後のことだった。

 そうでしたか。いろいろあったが、クリーンなイメージを売り物にしていた細川殿様にとって、我々の徹底的な疑惑追及によるダメージは大きかったと思う。NTT株購入問題での細川糾弾は、実に迫力満点だった。

亀井 資金運用をめぐる新たな疑惑が浮上していたことと、予算審議空転の責任をとって細川さんは辞任したが、一矢報いたという気持ちとともに、簡単に政権を投げ出してしまった細川さんに、正直言ってちょっと拍子抜けがしましたよ。

 ここまでが第一幕で、またまた亀井さんが大活躍する第二幕が上がる(笑)。

亀井 いや、森司令官はきついことは、全部私に命令するんだから(笑)。それでポスト細川に、我が党の渡辺美智雄先生の名前が浮上してきた。新生党の小沢一郎代表幹事が担ぎ出しを図ったんです。私が高輪の議員宿舎で、ちょうど寝ようとしたら森先生から電話がかかってきた。「カメちゃん、カメちゃん、渡辺ミッチーさんが向こう側から総裁候補で出るよ。そうしたら、自民党の中にも同調する者が必ず出てくる。今晩中に対抗する政権構想をつくらないといかんから、お前また働け」と…
 夜中の十二時過ぎだったが、赤坂プリンスホテルに集まり、森幹事長、私、桜井新さん、衛藤晟一さん、社会党から野坂浩賢さんと山下八洲夫さんが来て、朝までかかって六項目の政策協定をつくった
 私と野坂浩賢さんとは、古くからの知り合いだったんです。私が鳥取県警本部にいた頃、彼は鳥取県議でして、そのとき親しくなったんですよ。人の出会いとは、有難いものですねえ。まあ、それはともかく、その後いくらテレビを見ていても、渡辺先生が離党するというニュースが流れない。

 社会党が連立政権を離脱したのは、確か羽田孜内閣ができる少し前でしたね。新生党、日本新党、民社党の三党が、社会党抜きで統一会派「改新」をつくったので怒って連立を離脱したと…。

亀井 その前にすでに新党さきがけも小沢、細川さんらとの複雑な人間関係や、国民福祉税構想のごたごたで連立を離脱していました。一方、「改新」結成の仲間はずれにされていた社会党は、いくら羽田さんが復帰を呼びかけても応じませんでした。

 しかし、この時点では社会党の中にも連立政権に戻りたがっていたグループがあり、離れることに未練があったことも確かでしょう。


渡辺美智雄・元副総理の苦悩


亀井 話が前後してしまうが、我が党は、新党さきがけ、民社党にも入ってもらい、四党でリベラル政権樹立の声明を出し、そこで協議して首班を決めようということになった。渡辺先生が自民党を出て行って向こうに擁立されても、こちらは数で勝てると計算していた。しかし、いっこうに渡辺先生が離党したというニュースが流れてこない
 それで森幹事長に電話を入れたら、河野総裁が渡辺先生に離党しないように説得されているという。しかしそのとき、裏では小沢一郎さんが渡辺さんに、「あなたを我々の総理候補にする」といいながら、実際は羽田さんに乗り換えてしまっていた。だから、渡辺先生がいくら連絡をとろうとしても、とれない。これは雲行きがおかしいなと思っていたところに、河野総裁が慰留したので渡辺先生も党を出ることを思い留まられたようです。こちらは幹事長にいわれて徹夜で社会党の野坂さんらと政策協定をまとめ、闘うつもりでいたのにパーになってしまった。

 実は亀井さんには内緒で、私も渡辺先生を慰留したんです(笑)。いろいろあってね。

亀井 森先生は見かけによらず悪なんだ。二股かけたりして(笑)。

 そのとき河野総裁と一緒だったが、渡辺先生は私にこう言われた
 「君らは政権奪還、奪還というが、いつやれるんだ。今、ここで具体的に言ってみろ。取り戻すといったって本当にできるのか?」と…
 「いや、いや、渡辺先生のような国民に人気があって、財政、経済、その道にかけては絶対の方ですし、あなたがいないと自民党は成り立たない。ですから、ここはどうか思い留まってほしい」とお願いしたのだが、そのときは聞いてくれないんだな
 「俺が向こうに行ったら、君らを全部迎え入れるから心配するな。まず、俺が河を渡る」と意気軒昂だった
 私は、「小沢さんの謀略に乗ってはいけません。あの人は何をやるか分からない人だから」と止めたんですよ。
 後日、聞いたんだが、亀井先生がいうように小沢さんは最初、渡辺先生を首班にするといったようだが、そのうちに「自民党を出て新党をつくれ。五十人連れてきたら党首にする。三十人だったら友党だ、連立だ」と、そんな話だったと渡辺先生は話して下さった
 渡辺派の中山正暉さんも、渡辺先生を首班にするという話を聞いたとき、心配して小沢さんの家に真偽を確かめに行ったそうです。そうしたら居留守をつかわれたようで、仕方なく帰ってきて改めて電話で連絡をとったら、「そういう話は、すべて羽田さんに任せてある」という。そこで中山さんが羽田さんに確かめたら、「えっ、そんなこと何も知らないよ」と、ケロっとしていたという。この話を中山先生から聞いて渡辺先生は大変不快感をもたれたそうだが、そんなことなどもあって、先生は離党を諦められたようだが、それからしばらくして、渡辺先生は亡くなられた
 私は、那須の家までお悔やみいった。もう冷たくなっておられたけど、本当に涙が出てしょうがなかった。やはりあのとき、何がなんでも総理をやりたい、おそらく最後のチャンスと思われ、ご自分の体のこと、虫の知らせのようなものがあったのかもしれない。いまの私の気持ちとしては、あのとき慰留したことを本当に申し訳なく思っています。渡辺先生は、一度は総理の座に就いていただきたかったお一人でした。


社会党左派の闘士たちを説得


亀井 いろいろあったが、細川さんが退陣したので、与党側は後継者として羽田孜さんを担いで新内閣を発足させたが、あの内閣は初めから不安定なものだった。すでに新党さきがけも連立を離脱していたし…。

 社会党も羽田内閣が発足する二日前に連立を離脱していた。ただ、社会党の中には、連立政権に戻りたいという執念を持っていた人たちがいたので心配だったが、とにかく羽田内閣は第一次鳩山内閣以来の少数与党政権となった。

亀井 そう、我が党としてはますます攻めやすくなった。奥田敬和さん(議院運営委員長)の解任決議案、細川さんの秘書の証人喚問、ゼネコン汚職に関連して小沢さん(新生党代表幹事)の証人喚問と次々揺さぶりをかけていった。

 その裏で亀井先生は、前代未聞の社会党と連立の道を探って水面下で動いていた。

亀井 桜井新さんや白川勝彦君たちが頑張ってくれたんですよ。当時の社会党は衆議院七十三名のうち、久保(亘)書記長をはじめ、ほとんど右派。これがみんな小沢さんの子分のようなもので、小沢さんの政治手法に反発していた左派は二十一名しかいなかった
 あのとき桜井さんは病院に入院していたのだが、夜、病院の裏階段から抜け出して、大出俊さんだとか山口ツルさん(山口鶴男予算委員長)らと、左派の幹部を命がけで口説いてくれたんですよ
 私も、まだ社会党が連立政権に留まっていたときに、仲のいい野坂浩賢さん(国対委員長)と小料理屋で飲みながら、こんな話をしたことを覚えている
 「お前さんは、次はいいポストに入るんだろう」「小沢さんが、次の改造にはどの大臣でも好きなポストを選べといってくれている」「ああ、いいなぁ、お前もようやく日の当たるところへ出られて……。だけどなぁ、お前のような社会党左派の大物が、小沢あたりにこき使われていて満足しているのか。それで政治家の一生が終わっていいのか」  彼は飄々としているが、鳥取県議時代には、自衛隊美保基地反対闘争を指導するなど、社会党の闘士として知られていた男で、本当は小沢さんの政治手法と合わない。だが、連立の枠組みに入っている以上、立場上、「そんなこと言ったって、しょうがないじゃないか」と話していた。私は酒をぐいぐい彼に飲ませて、「自民党が連立政権を潰したら、こっちの新しい政権の枠組みと結ぶか」と聞いてみた。そしたら、彼は「社会党は俺一人でどうにもなるもんじゃないが、俺はいいよ」という。「いいか、今の言葉をしっかり覚えといてくれ、約束は守れよ」と念を押したら「守る」と約束してくれた。


水面下での社会党への働きかけ


 実のところ社会党は、連立与党の政策協議でも異論が出て党内は、なかなかまとまらなかったようだが、それでも付いていった。■何処までも、付いていきます、下駄の雪■などと、からかわれながらも…。でも、内心では忸怩(じくじ)たる思いをしていた人もいただろうな。とくに左派の人たちには…。

亀井 その通りです。そうこうしているうちに新生、日本新党、民社が社会党に黙って統一会派「改新」をつくった。それでさすがに■下駄の雪■も怒って連立を離脱した(笑)。

 我々は、少数与党政権の羽田内閣を潰す勝負時がすぐにやってくると分かっていた。そこで亀井さんは素早く、水面下で社会党の抱きこみ工作に入り、汗を流してくれた。

亀井 私は、永田町のキャピタル東急に部屋を借りて、「社会党左派の連中をまとめてこい」と、白川勝彦君にはっぱをかけた。彼は伊東秀子、金田誠一さんらを窓口にして、勉強会と称して社会党の若い連中を連日、部屋に集めて懸命に説得してくれた
 やがて、彼からこんな報告が入ったんですよ。「もし社会党がもう一度、連立政権に参加して小沢と手を組むなら、ここに集まった十三人は脱党して新党をつくる。そのときは自分も彼らと一緒にやらなくてはならない。そんな雲行きになってしまったが、どうしたらいいか」と…。

 亀井さんからその話を聞いたとき私は、「白川君にはご苦労だが、その新党に入ってもらって多くの議員に入党を呼びかけてもらいたい」と言った。

亀井 ええ、ですから白川君は我が党にとって大功労者なんですよ。ところが、途中から彼は迷走して、我が党を離れてしまい、本当に残念でしょうがない
 少し後の話ですが、自民党は社会党の伊東秀子さんにこのときの借りがあるから、彼女が北海道の知事選に出たとき「あなたのおかげで日本は助かった。あなたはジャンヌ・ダルクだ」と言って彼女を推薦したんだよ。まぁ、いろんなことがあったが、あのときは私も命がけで野坂浩賢さん、山口ツルさんなど社会党の幹部を次々と口説いていったから、あの時点で確か社会党の二十一名が我が陣営側に。これで社会党との連立の一つの大きな手がかりができたわけです。


党議の前に村山首班を約束


 私の方も、社会党右派の久保亘書記長と密かに会っていた。参議院自民党幹事長の山本富雄さん、社会党の参議院議員会長の浜本万三さんらと会談の場を持ち、さきがけの武村さんとも話し合った。ただ社会党とは、焦って政策面まで詰めるとかえって亀裂が入ると思ったから、まず国会内で協力しようということにした。久保さんは、最後まで連立与党に戻りたいという執念のようなものが見えたから…。

亀井 そう、社会党からは久保さんを中心に、「羽田総理が自主的に総辞職すれば政権に復帰する」といった話が流されていましたね。

 最後まで揺れ動く社会党と、小沢さんらの自民党分裂工作に、こちらも命の縮む思いをさせられた。

亀井 社会党の左派には、自民党と組んでもいいという者がかなりいたが、何しろ「日の丸」「君が代」「日米安保」反対の者ばかりでしょう。彼らも胸を張って自民党と組むには抵抗感がある。とくに、若い連中にはね
 しかし、彼らも何か大義名分があれば、我が方と手を組みやすくなる。そこで、彼らが尊敬しており、社会党に影響力のある朝日新聞の中馬清福さんのような高名なジャーナリストから「自民党と組んでやってみろ」と言ってもらえれば、社会党の左派の者たちも、こちらに歩み寄りやすくなる。私がそう考えていたら、うまいことに当の本人である中馬さんが、私の思っている通りのことを言ってくれた。これは大きかったな。たぶん、彼らが結束する大きな力の一つになったのではないのかと思う。

 社会党の左派はまとまりつつあったが、久保書記長からは連立政権に戻りたいという執念が伺えた。話は前後するかもしれないが、久保さんに河野洋平総裁と社会党の村山富市さんとの党首会談の開催を求めると、「まだ党首会談といった時期は来ていませんな」と、絶対に二人を会わせようとしない。国対委員長の小里先生も、いろいろ骨を折って下さったが、どうしてもうまくいかない
 そこで小里さんは、「では、あなたが自民党の幹事長と会ってほしい」と、強引に社会党と自民党の四者会談をセットしてくれた。

亀井 久保さんは、自分に都合の悪いことは腹に飲み込んでしまうところがある。

 そこは小里先生のうまいところで、どうしても党首会談をさせまいとする久保さんに、「分かった、もう負けた。あなたたちはもう一度、小沢さんたちと組んだらいい。こっちは諦めた。しかし、鹿児島の同郷のよしみで、俺の顔を立ててくれ」と頼んで最終日の前日、四者会談ということで野坂さんと一緒に久保さんを引っ張って来てくれた。その頃、社会党の連立政権復帰の可能性が見えていたので久保さんは、もう勝ったつもりになっていたのだろう。気楽な気持ちで、野坂さんとやってきた
 私は会談の席で、「もう会う機会もないだろうから、あえてこの場で言っておきたい。われわれは首班指名選挙において村山首班でいきたいと考えている。そのことをただちに党に持ち帰って協議していただきたい」と突然切り出した。そしたら久保さんは、びっくりしていたな(笑)。

亀井 聞くところによると■裂帛(れっぱく)の気合■だったそうですね(笑)。

 そしたら、同席していた野坂浩賢さんが、待ってましたとばかりに久保さんに、「書記長、この森幹事長の発言は重いですよ。早速党に持ち帰り、村山委員長や中執(社会党中央執行委員会)に報告すべきです」と促してくれた。久保さんはあわてて、「森さん、それは本当ですか。今の話は森さん個人の考えですか。それとも党議で決まったことですか」と聞いてきた。私はとっさに、「ここは自民党の幹事長と社会党の書記長の公式会談です。その席でいやしくも自民党の幹事長が提案したことだ。私が責任を持って党の意見にします。書記長も党に戻って相談の上、村山党首のご返事を持ってきてほしい」と念を押したら、野坂さんは大きく頷いてくれたが、久保さんの顔色は変わっていた。

亀井 突然、そんな話を持ち出されたら、久保さんだって緊張しますよ。野坂さんは心得ていたでしょうけど…。

 別れ際に久保さんは、声を振り絞るように言うんですよ
 「森さん、この村山首班の話は絶対に外部に洩らさないでほしい。その発言はここではなかったことにしていただきたい」とね。私は即座に、「承知しました」と返事したものの、そのときの小里先生は戸惑った顔をされておられた。

亀井 当然でしょう。そういう話は、既成事実をつくるためにマスコミに流すなどして、外に出さなければ意味がない。

 承知したといったのは、あくまで幹事長の私であって、国対委員長の小里先生の口まで封じるとは約束しなかった。小里先生も後になって「なるほど、その通りだ」と笑っていましたよ(笑)。


河野洋平総裁の英断


亀井 四者会談をセットした小里先生は、大功労者ですね。

 ええ、そのとおり。まあ、そこまでは順調だったのだが、本心、えらいことになってしまったと思ったな。自民党の浮沈にかかわるこんな大事なことを河野総裁の了解を全く得てないし、党の機関にもかけないで独断でやってしまったんだから…
 とにかく、私は河野総裁の許(もと)に走り、村山さんを擁立する提案をしたことを報告し、威儀を正して「申し訳ないことをいたしました。最高責任者である総裁の了解もとらずに、こんな重大なことを勝手に言ってしまいました。昔なら切腹ものです。村山委員長との党首会談は必ず実現させます。そのときは枉(ま)げてこの話をしていただきたい」とお願いした。そのくだりを河野さんは昨年十二月の日経新聞の『私の履歴書』欄で、私が涙を流しながら訴えたと書いておられたが、このときの総裁は終始淡々としたご様子で、「ありがとう。それしかないね。私があなたの立場でも同じことを言ったでしょう」と了解して下さった。本当に立派な態度で、ありがたく頭が下がりました。

亀井 その後でしたか、待ち構えていた新聞記者から、野坂、久保さんら社会党との四者会談のことを聞かれた。そのとき森幹事長はもったいぶって、「極めて重要な提案をしてきた」と答えていた。そのすぐそばで、小里先生が近くにいた記者にそっと、「村山首班だ」と耳打ちしたと…。

 そう、まごまごしていると、自民党は潰れてしまう。政権復帰するために「社会党と組もう」といったのは亀井さんです。あなたから、「早くやれ、早くやれ」と急せかされていたが、何とか流れをつくれたかなと思って幹事長室に戻ると、「よく言ってくれた、よく言ってくれた」と、目に涙をいっぱいためて、そのひげ面で私に抱きついてきた(笑)。芝居でいえば森・亀井の『涙の抱擁』シーンでしたね(笑)。

亀井 久保さんらに邪魔されて、思ったよりも自社連立の話が進まなかったので、あのときは本当に嬉しかったな。「ついに、ヤッター」という気持ちでしたよ。だが、次なる難関が待ち受けていた。


両院議員総会で迎えた正念場


 そう、自民党内で正式に村山擁立をどの機関で決定するか、それが大きな問題でした。通常、これほど大事なことは、総務会を経て両院議員総会にかけるという手順をとる。そうすると二回手続きが必要になり、その間に潰されてしまう可能性があった。

亀井 森幹事長は、「よし、議員総会一回で行こう」と決断された。

 こうした総会は事前にしっかりシナリオを練っておかないとうまくいかないと思い、平井卓志先生(両院議員総会長)にお願いして、綿密に進め方を話し合いました。平井先生の協力がなかったら、どうなっていたか。案の定、あのときの両院議員総会は大荒れに荒れた。総務会を飛ばして開いた総会だから…。

亀井 ほんとうに、すごかった。反対、反対の大合唱(笑)。

 「何をお前ら血迷っているんだ。社会党と組んでやるんだと。もともと河野はハト派と分かっていたが、お前まで気が狂ったのか」などと、さんざん怒鳴られ、えらい目にあった。いまの武部幹事長も大反対の演説をぶったぞ(笑)。とくに、当時の中曽根派の人たちは、烈火のごとく怒って、バンバン反対意見をふっかけてくる。

亀井 そのとき、私のすぐ側に座っていた衛藤晟一議員がスッーと立ち上がると、ダッーと前にすっ飛んで行きマイクをパッと掴むと、まさに声涙ともにくだる大演説を始めた
 「ただいま河野総裁が、社会党の村山委員長を総理に推薦いたしました。皆さん、いま誰が一番悲痛な思いでおられるか、おわかりですか。それは河野総裁ご自身にほかありません。それに私は社会党の村山委員長と同じ選挙区で、しかも五百メートルほどの近所に住んでおります。今や小選挙区制に代わり、次の選挙を私は現職総理大臣を相手に闘うことになるのです。皆さん、おわかりですか。私はそれだけ大きな荷物を背負ってもなお、我が党のことを思えばこそ、村山首班に賛成いたします」  この瞬間、あれだけ騒がしかった会場が、水を打ったようにシーンと静まり返ってしまった。私は憲政史上に残る素晴らしい演説だと思った。

 それからあのとき、「この混乱した政局を収拾し、民主的な政権を打ち立てるため、枉(ま)げてご了承いただきたい」と、村山首班による自社連立を訴える河野総裁の力強い演説には胸を打たれました。

亀井 本当に立派でした。両院総会の少し前の話ですが、面白かったのは、トイレで連立与党の山口珍念(敏夫)さんに会ったら、「カメちゃん、カメちゃん、こっちの負けだよ。そっちの勝ちだよ」というんだ。あの人はカンがいいからな。中曽根元総理が、連立与党に担ぎ出された海部(俊樹)さんを支持するという記者会見を見て、そう判断したのだと思う。

 社会党の人たちは、「タカ派で改憲派のシンボル的存在の中曽根先生が海部さんを支持するのなら同調できない」と、逆にこの一件で村山首班の流れが一気に加速した(笑)。これは皮肉でしたね
 それでも一回目の投票は、どちらも過半数を超えなかった。それで再投票になった。その間、確か四十分の休憩だと思ったが、我が党の素早い動きに社会党の人たちはびっくりしていたな。誰が村山さんに入れ、誰が海部さんに入れたか全部集計して持ってきてくれた。これは我が派の中川秀直さんだったね。派閥はいろいろ言われるけど、ああいうことは、派閥じゃないと出来るものではない
 まあ、それで、ある程度の票読みは出来たが、正直いって、二回目の投票のときは緊張した。三十五年間この世界でやってきたけど、あのときほどドキドキしたことはなかったなあ。もし首班指名に敗れれば昔だったら、私も亀井さんも市中引き回しの上、獄門さらし首ですよ(笑)。


政治に新たな転機をもたらし、政権に復帰


亀井 幸い、平成六年六月二十九日の衆参両院本会議において、自民党、社会党、さきがけの支持により、村山首相が誕生した。そして翌日、村山内閣が発足し、約十一か月ぶりに我が党は政権に復帰することができたが、いま振り返れば、我が党にとっては貴重な試練の期間であったと思います。

 あのときほど、党幹部、同志の方々が、それぞれ使命感、闘志をみなぎらせて一丸となって闘ったのを見たことがありません。当時のYKK(山崎拓、小泉純一郎、加藤紘一の各議員)しかり、中でも労組に太いパイプを持つ加藤紘一先生(元幹事長)は、村山富市委員長の出身母体の自治労(全日本自治団体労働組合)と密かに接触を重ね、活路を見い出す努力をされた。われわれは挫折感も味わい、辛い日々が続きましたが、河野洋平総裁の決断はご立派で頭が下がります。

亀井 あのとき社会党と手を組んだことに批判の声が上がりました。中には「頭が狂ったのか」と言う者もいたが、自民党は決して筋を曲げたのではないということをはっきりここで申しておきたい。「日の丸」「君が代」「日米安保堅持」といった、我が党の基本路線はきちっと守り、逆に社会党に同調させる中で連立政権をつくっていったわけですからね。
 ともすれば世間では、自民党が政権欲しさに野合したと言う人がいるけれど、実は違うんだ。我々は小沢さんや有象無象に任しておくわけにはいかん、という気持ちだった。社会党はこれまで日の丸、君が代、安保反対などはあくまでも建前で、建前である以上、誠心誠意、社会党を口説ければ、必ず突破口は開けると確信していた。

 ベルリンの壁が崩れた時から、社会党は何かの転機が欲しかったんだよ。亀井先生はある意味ではベルリンの壁的な役割を政界で演じられたわけですよね。私は村山総理は最初の本会議で社会党の政策転換をどのように訴えられるか、固唾を呑んで聞いていたが、見事な演説でした。あぁ、これで社会党は変わる。日本の政治のためにこんないいことはない。これこそ村山さんの大ホームランだと思った。その日の午後、私は総理官邸に村山さんを訪ね「いつ党の了解をいただけたんですか」と聞くと、村山さんは「社会党の委員長と日本国の総理大臣の地位はどちらが重いのか、言わずもがなだ。気に入らなければ即刻、社会党委員長をクビにして下さい」と、言われたそうです。実に立派でした。見事なものでした。


村山政権から自民党へのバトンタッチ


亀井 あれは確か村山政権の末期、平成七年十二月二十日ごろだったと思うが、官房長官の野坂浩賢さんから、村山さんが政権を自民党に渡すと言っておられるとの電話があった。私は官邸に飛んで行った。村山さんは多数を擁する自民党から首班を出すべきだ。今はイレギュラーだ。自民党に総理の座を渡さなきゃいかんと前々から思っていた。今でないと私は責任を持って自民党の首班指名に、社会党票をまとめて入れさせるという自信がないんだと言われた。

 社会党の党内にいろんな確執が残っていたのに、村山さんは我々のことにも気を配って下さっていたわけだ。実は村山さんが政権の禅譲を口にされたのは、この時だけでなかった。平成六年七月の参院選挙で社会党が大敗したときもそうだった。このとき村山さんは、政権を河野さんに譲ると言われたんですよ。

亀井 せっかくの申し入れを河野さんは断られたとか…。

 そうじゃないんだよ。いろいろあるんだが、ある自民党の有力者が河野さんの総理就任には絶対反対だと異を唱えられたんだ。

亀井 誰が言われたかだいたい見当はつくが、はっきりこの場で公表して下さいよ。そうすれば、この『月刊自由民主』が飛ぶように売れるのになぁ(笑)。

 今の小泉政権にもいろいろ影響するからいえないよ。後日、楽しみに。私が政界を引退した暁に日経新聞の『私の履歴書』ででも語りますよ(笑)。私は党の総裁になって、総理になられていないのは河野さんだけ。ご本人は野党の総裁として、その名を残せればいいと思われているのかもしれませんが、河野さんに本当に申し訳がないというか、私は負の遺産を抱えているような気持ちでした。

亀井 そういう意味から言っても、河野さんが国権の最高機関の衆議院議長になられたことは本当によかったと思いますね。

 綿貫議長辞任後、直ちに小泉総裁に進言、小泉さんも即座に了承でした。今年は立党五十周年という節目の年になりますが、これからも我が党の理念を曲げることなく、自由民主党という名前に誇りを持ち、立党の原点である「政治は国民のもの」という政治信条に基づいて政治の舵取りをしていく限り、国民政党たる我が党は必ず進路を誤ることなく前進することができると、私は確信しています。立党の原点に立ち返り、これからも国民に責任ある政治を実現するためにお互いに頑張りましょう。

亀井 えぇ、もちろんです。森先生は現在、自民党の新憲法起草委員会の委員長としての国家的な大事業に取り組んでおられますが、くれぐれもお身体には気を付けて下さい。私も将来に希望が持てる国づくりのためには骨身を惜しみません。同じ思いを抱いている方々と力を合わせて今後とも頑張ってまいる覚悟です。

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