活動実績

新聞・雑誌等での亀井静香の発言

戻る

2005.3.26◎毎日新聞朝刊
近聞遠見 岩見 隆夫
自民結党50年の「秘めごと」

 50歳と言えば、昔なら平均寿命だった。自民党がその年になる。いろいろガタがくるもの避けがたい。
 自民党の機関誌「月刊・自由民主」3月号に立党50周年企画として特集している対談は活劇を見るようで、面白い。題して、
<政権奪回への道ーー毅然と対決、死闘11ヶ月の攻防>
 対談者は森喜朗前首相と亀井静香元政調会長だ。半世紀の党史のなかでもっとも苦しかった時期、自民党が野党に転落する93年8月から政権奪回を果たす94年6月までの政争の内幕を、赤裸々に語り尽くしている。
 非自民の細川連立政権を打倒し、社会党の村山富市委員長を首相に担ぐ奇手妙手の迫真ドラマで、<史上最強の野党>などと言われた。50人近い与野党議員の実名がポンポン飛び出し、さながら平成三国志だ。
 ところが、対談の締めくくりで、一人だけ名を秘している。95年7月の参議院選直後の場面。首相官邸で連立3党の党首、河野洋平自民党総裁と村山、武村正義新党さきがけ代表の3者会談が開かれ、席上、社会党の大敗を受けて、村山は、
「政権を河野さんに譲りたい」
 と申し出た。対談ではそのときの模様が次のように語られる。
 亀井「せっかくの申し入れを河野さんは断られたとか...」
 森 「そうじゃないんだよ。いろいろあるんだが、ある自民党の有力者が、河野さんの総理就任には絶対反対だと異を唱えられたんだ」
 亀井「誰が言われたか、大体見当はつくが、はっきりこの場で公表してくださいよ。そうすれば、この「月刊・自由民主」」が飛ぶように売れるのになあ(笑い)」
 森「いまの小泉政権にもいろいろ影響するから言えないよ。後日、楽しみに。私が政界を引退した暁には、日経新聞の「私の履歴書」ででも語りますよ(笑い)。総戦になって、総理になられていないのは河野さんだけ。本当に申し訳がないというか、私は負の遺産を抱えているような気持ちでした。」
 亀井「そういう意味からも、河野さんが国権の最高機関の衆院議長になられたことは本当によかったと思いますね」
 だが、森の引退を待っていたら、いつのことになるかわからない。10年も前のことだから、もう解禁の時期である。
 党首会談の控えの部屋で待機していた森幹事長のもとに、
「反対だ」
 と電話をかけてきた有権者は、最大党閥、弊政政治研究会(小渕派)の小渕恵三会長だった。
 森と相談し、その電話を知って河野は断念する。河野の決断で首相を受け取る選択もあったはずだが、党内融和を優先したのだろう。
 小渕の反対は、派閥力学上分かりやすい。竹下政権の退陣からすでに6年余りが過ぎていたし、<河野政権>を許せば、最大派閥にいつまた政権がめぐってくるかわからないからだ。
 その後の経過は、橋本龍太郎、小渕と平成研究政権が2代続いた。河野政権が挟まれば、小泉に至るまで別の展開になっていたのは間違いない。きわどい密室でのせめぎ合いだった。
 気軽にあちこち呼び出す小渕の電話好きは、首相時代、<ブッチポン>の異名までとったが、なかには政局を左右する秘められた1本もあったのだ。当時はまだ携帯ではない。
 振り返れば、野党への転落が自民党のガタの始まりである。それでも、小渕のころはまだ、<天の時、地の利、人の和>(恵三の由来)などとゆとりもあったが、いまは三つとも危うく、切迫している。
 結党50年、蘇生の策はあるのか。

※無断転載を禁ず


戻る

TOPに戻る

バックナンバー