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新聞・雑誌等での亀井静香の発言

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2005.5.1◎文藝春秋17年5月号
特別企画 証言1970-72

あさま山荘事件 無念の作戦失敗


 連合赤軍の五人が九日間、籠城戦で抵抗した「あさま山荘」事件。この事件について私は公に語ったことがない。それは警察のとった作戦が、結果として成功とはいえないと考えているからだ。
 当時、警察庁警備局公安第一課課長補佐として私は作戦に加わったが、目の前で、内田尚孝警視庁第二機動隊長、特科車両隊の高見繁光氏の両警察官が撃ち殺され、多くの重軽傷者を出した。殉職者を出した以上、作戦は失敗だ。何より慚愧に堪えないのは、私の捜査が万全ならば、そもそも事件は起こらなかったという思いがあるからだ。
 七一年、凶悪化した極左集団を取り締まるため警視庁に警備調査官室が設置され、私は埼玉県警から呼ばれた。警視庁、神奈川県警、千葉県警と所轄をまたぐ重要事件について警視庁が直接指導をとるための臨時措置で、弱冠三十三歳の私が各都道府県の本部長以下に、直接指示を下すことになったのである。金融機関を襲う連続強盗事件を起こし、銃砲店をも襲った彼らの足跡をようやく捕捉したのは、七二年二月のことだった。
 地元民の通報で群馬県警が山狩りをし、迦葉山山中で大きな丸太小屋の山岳アジトを発見したのである。私も現場に急行した。同山中では、薄汚れた男女が二人、不振車両に立て籠もっていた。ところがこの男女を引きずり降ろす容疑が浮かばない。「もう匙を投げた。ちょっと寝るわ」と、机の上に足を上げて目を閉じた途端に閃いた。山小屋を作ったのだから周辺の木を無断で伐採したはずだ。「これは氏名不詳の窃盗罪だ!」と。
 ところが検察がウンと言わない。高検でも無茶だと言う。無茶でも何でもこれでやるしかないと令状を請求させたら、裁判所が認めた。それで車の窓を叩き割って引きずり出すと、男は京浜安保共闘の奥沢修一で、女は杉崎ミサ子だった。その後、妙義山中で盛り恒夫と永田洋子の逮捕にも成功した。
 二月の厳寒期の妙義山。アジトの岩屋には黄色いシートが張ってあり、リュックサックが乱雑に放り投げられていた。期には空き缶がぶら下げられて、蜂の巣のような穴があいている。それは射撃訓練の跡だった。きわめて正確な射撃の腕に慄然としたことを覚えている。洞窟のすぐ傍らには、小さく着られたびしょぬれの衣服があったが、鑑識は「着衣を死体から剥ぐときに小さく切るから、死者が出たのではないか」との見方で、果たして、これはリンチ事件の物証となった。
 妙義から逃亡した連合赤軍を追い、軽井沢で四人を捕らえたものの、結局、残りの五人にはあさま山荘に逃げ込まれてしまった。
 だから、私が彼らを取り逃がさなければ、あさま山荘事件は起こらなかった。私にとっては大恥というしかない。
 犠牲者を多数出してしまったのは、ひとつには内部の状況がわからないまま突入せざるを得なかったからだ。煙突から集音器を入れて音を拾おうとしたが、失敗に終わった。さらにもうひとつの誤算は、鉄球を積んだ十トンのクレーン車のエンジンが、途中で止まってしまったことだ。山荘を完全に破壊する計画を達成できないまま、機動隊員は突入を強いられた。
 殉職した内田警視は部下思いの勇敢な指揮官だった。部下思いであるが故に、第二機動隊の突入に際して土壌から頭を上げて見届けようとした。その一瞬を凶弾に撃ち抜かれてしまった。
 突入後も犯人グループになかなか接近できなかったのは、乱射する犯人に対して警官が発砲をためらったからだが、これは指令方法に問題があった。「適正に拳銃を使用しろ」と命じられていたからで、私は現場でただ「撃て!」と声を張り上げた。「適正に」などと言われれば、後の責任追及を恐れるのは当然の心理だ。現場の責任者が明確な指示を出さなければ、部下はまったく動けなくなる。これは非常にいい勉強になった。
 事件が解決したのは、警視庁と長野県警が協力して死力を尽くしたからだが、けっして威張れるような作戦ではない。しかし、私は同僚を殺した犯人グループに対して、なぜか一方的な憎しみを感じなかった。
 彼らのやったことは明らかに間違っている。しかしその動機は、恵まれない人民をどうにかしたい、つまり「他」の幸せを望む思いにあった。取り調べでも、その気迫は伝わってきた。彼らを批判する人物に私は、けしからんというのは容易だが、そのあなたは金儲けに明け暮れエゴイスティックな生活をしているのではないか、と言ったこともある。
 志ある若者がなぜ誤った道に足を踏み入れたのか。そこに政治の責任を感じたが故に、私は警視庁を退職し、衆院選出馬を決意した。だからもし事件がなかったら、亀井静香という代議士は存在しなかっただろう。

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