活動実績

新聞・雑誌等での亀井静香の発言

戻る

2006.2.5◎ビックコミック
BIG COMIC ORIGINAL PRESENTS 子から親へ
ずっと書きたかった私からの手紙
The Dearest Letter to my Parents.

世の中で切っても切れないもの…それは“親子の絆”。 世代を越えて、受け継がれてきた自分の中の親のカタチ、そんな子から親への心の伝言。

亀井素一(そいち)【父】・静恵【母】へ 自分を顧みず、人の幸せのために尽力した父。子供たちのために人生を捧げた母。いくら感謝しても感謝しつくせない両親。


戦前、親父は30代で村役場の助役をやった。

「間違いない、あの親父とオフクロがいなければ、僕はこうなっていなかった」


亀井静香 '36年広島県庄原市生まれ。東大経済学部卒後、住友精化を経て、'62年警察庁に入庁、'77年退官、'79年衆議院選挙初出馬、初当選、以来10期連続当選。運輸、建設大臣、政務調査会長を歴任、小泉首相の反主流として郵政民営化法案に反対。'05年8月自民党を離党、国民新党を結党、代表代行に。'05年9月の衆院選では“刺客”、堀江貴文の猛襲にあったが、からくも当選。亀井郁夫参議院議員は実兄。

“静香”と言う名は、生まれたときに「光源氏」みたいな可愛い顔をしていたわけよ。それで両親が相談して、そんな名前を付けた。  故郷の旧名は広島県比婆郡山内北村。山間にポツンポツンと家が建つ、4反3畝(せ)の田しか財がない農家で、僕は生まれ育った。小学校には地蔵さんが峰の上に立つ山道を、1時間ほど歩いて通ったものだ。
 家系をたどれば、亀井家は少なくとも戦国時代にさかのぼれ、昔は広大な田畑があった。ところが幕末の頃、家督を継いだ先祖が武道に凝り、全国の浪人者を集め道場を作ったり、財産をほとんどなくしてしまった。だから、貧乏でも家格だけは高かったわけだ。
 戦前、親父は30代で村役場の助役をやった。4反3畝(せ)の田んぼでも、30俵くらいの米は獲れたが、ちっちゃい頃は芋と芋の茎と、米粒なんかほとんどない雑炊ばかり食べていた。戦時中、親父は先頭に立って、収穫した米をお国のために供出していたのだ。
 戦争に負けたのは僕が小学3年のときで、当時の子供はみんな軍国少年だったから、僕もあのときは「一緒に死のう」と、ヒゴノカミを持って兄貴を追いかけ回したのを覚えている。地域社会のリーダーだった親父は、さぞやガクッときたことだろう。敗戦から間がない時期に、親父は責任をとる形で助役の職を辞している。
 戦後は、満州(中国東北部)からご苦労されて、裸一貫で引き揚げてきた人たちのために、親父は親身になって行動した。島根県との県境に近い高野町の和南原に、開拓団として入植したその人たちのために、親父は役場と掛けあったり、毎日のように片道2時間ぐらいかけて和南原に通い、私財をなげうつ形で徹底的に面倒をみた。
 また、親父は被差別部落の人たちの側に立っていた。被差別部落の人がしょっちゅう家に出入りをしていたし、差別の不合理を泣いて訴えてくる人がいると、親父は矢面に立ち、差別をした相手のところに出向いたり、相手を呼びつけたりした。
 オフクロといえばちっちゃい頃、日の暮れた山道を負ぶさって、家路を急いだときの思い出。真っ暗な山道で、オフクロも心細かったんだろうな。「静香、寝るなよ、寝るなよ」、とささやく優しい声と、オフクロのあったかい背中は、今も忘れない。

僕はオフクロに怒られた記憶が一度もないのだ。


“静香”と名付けられるほど、可愛かったのが今みたいになったのは、先生に叩かれすぎたからだというくらい、僕は悪さばかりしていた。
 一山越えて、小学校に通うのは難儀で。小学6年になれば僕が親分だから、仲間と学校をさぼり、山の上の地蔵さんで弁当を食べた後、落とし穴を掘って。学校帰りの女の子が、穴に落ちるのを木の上で見ていて大笑いしたり。そんないたずらが見つかるたびに、先生に「こらっ、またやったな!!」と。
 でもオフクロは、できの悪い子ほど可愛かったのか、徹底的に僕を保護した。どんなに悪さをしても、「静香、お前ね」といったきり、一度たりとも僕を叱ったことがなかった。僕はオフクロに怒られた記憶が一度もないのだ。
 僕の胸の内で、オフクロは菩薩の像の姿をしている。
 親父にはたまに叩かれたが、怖い親父じゃなかった。でも一度だけ、小学6年の頃だったな。僕の悪さに堪忍袋の緒が切れたのか、仏壇の前に連れていかれ、「ここに座れ!」と。親父はやおら家にあった日本刀を取り出し、スルスルッと抜くと、錆びた刀をこっちに向け、「お前を殺して、俺も死ぬッ!!」
 子供心に殺されちゃかなわんと、僕は両手をついて必死に謝ったが、ふと部屋の隅を見ると、オフクロは知らん顔して、うろちょろしてるんだ。
 オフクロは端から、親父の芝居だと分かっていたんだな。親父にガツンと意見をして、止めてくれてもよさそうなものを、オフクロへの恨みがましいことといったら、その一件ぐらいだ。
 働き者のオフクロで、農作業を一手に引き受けた上に、マキを束ねたり、夜はスミを入れるワラの袋を編んだりして金にして。僕はオフクロが寝ている姿を見たことがない。
 子供に分けてやれる財産はない。せめて教育を身につけさせて、子供がちゃんと生きていけるようにしてやろう。親父も旧制中学は出ているが、上の学校に行けなかったし、子供たちは高校、大学に行かせよう、親父とオフクロはそう決めていた。
 オフクロは必死に働いて稼いだ金を、米や野菜と共に広島市内で間借りし、自炊しながら進学校に通っていた兄貴や姉貴たちに送り続けた。
 親父も少しは家の仕事をやっただろうけどね、どちらかといったら一生懸命に人のために奮闘して。経済的な面はオフクロが一人で頑張り、家を支えていたという感じだった。
 親父は酒も飲まなかったし、こうと思ったら徹底してやる一徹なところがあったから、村ではインテリ扱いされていたが、同時に扱いにくい人物だったのかもしれない。
 でもまっ、若い頃の親父は男前だったからね、村中の女性にもてたようだ。男と女の関係を癖だなんていったら親父に悪いし、愛の形はいろいろあるが、若い頃の親父の女性関係は華やかだったみたいだ。
 親父が少々、女遊びをしようが、僕が小学生の頃は祖父ちゃん、祖母ちゃんが健在だったから。オフクロの一番の敵といえば舅、姑だった。
 夜も寝ずに働き尽くめで、子供に教育をつけさせようという、気概を持ったオフクロだったから、性格的にはきついところも当然あって。オフクロも負けてない。祖父ちゃん、祖母ちゃんとはかなりぶつかり、相当いじめられたようだ。
 今から思うと、オフクロと祖母ちゃんの間に挟まれ、親父も大変だったろうけど。
でも、女房がいじめられるのを放っておいたんだから、その点は親父も意気地がなかったんだよ。
 オフクロは耐え切れず、家出したことも何度かあった。そのたびに僕が、オフクロの実家に迎えに行って。
「静香がのう、トボトボ歩いて、迎えに来てくれたんだ」オフクロは後年、嬉しそうにいっていた。

僕は、運輸、建設大臣、政調会長を歴任したが…


 身を粉にして働いても家は貧乏だった。僕が中学に上がる頃、もう限界だと親父も音をあげ、「末っ子の静香は田舎においておこう」と、オフクロにいう。
 実は、向上心なんてまったくなかった僕も、広島市内の中学なんかにいかず村に残って、田舎の学校で友だちと野球をしていたかったんだ。ところが、
「私は死んでもいいから、静香も都会の学校に出してやってくれ」
 オフクロは泣いて親父に頼んだ。
「嫌だよ、田舎にいたい」僕がいっても、「行け!」と。このときだけはあの優しいオフクロが、聞く耳を持たなかった。それが僕のためになると、オフクロは確信していたのだろう。
 親元を離れなかったら多分、僕は地元の高校を出て生涯、地元で暮らしていたに違いない。
 医者になれ弁護士になれとか、将来の僕らの職業について、一切何もいわなかったのは、自分が浮かばれるために子供たちに教育したわけではないという思いが、両親にあったからだろう。“まあ、うまい具合に子供たちは成長してくれた、苦労した甲斐があったのう”親はそう思っていたんじゃないか。“社会の役に立つ人間になれよ”という思いを親父、オフクロは抱いていたことだろう。
 オフクロは子供たちのためだけに、自分の人生をかけてくれた。オフクロが生きていたら、今の僕を見て、
“大変じゃのう……”
と、つぶやいたに違いない。
 晩年、認知症を患ったオフクロは、昔のことばかり思い出して、お父さんはああだったこうだったと、親父の若い頃の女性関係を僕らに訴えて。
「静枝、もういうな、もういうな」
 晩年は好々爺だった親父の悩みといったらそのくらいで。町会議員にと薦められても断り、狭い世界だけれど親父は自分を顧みず、困った人たちを一生懸命になって助け、人の幸せのために尽力した。一方、僕は運輸、建設大臣、政調会長を歴任したが、はたして親父以上の仕事が出来たのだろうか。
“功なきを恥ず”
 それは衆議院議員勤続25年で表彰されたとき、御礼の文に記した言葉だ。
 親父やオフクロのような人間が生きられる、みんなが幸せになっていこうとする、そんな日本にしていかなくてはいかんのだ……。

※無断転載を禁ず


戻る

TOPに戻る

バックナンバー