活動実績

新聞・雑誌等での亀井静香の発言

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2006.4.1◎財界 2006 春季特大号
特別対談 新しい「国のかたち」づくり
憲法改正、教育問題から国の品格、
個人の生きる軸までを語ろう!

渡部 昇一 × 亀井 静香

すべての国民がともに支え合いながら、物心の豊かさを現実のものにしていこうと呼びかける衆議院議員の亀井静香氏。
『尊敬される国民 品格ある国家』(岡崎久彦氏と共著)で、誇りを持てない日本人を憂い、国家の品格こそが日本の将来を決めるとの思想を展開する評論家の渡部昇一氏。
日本が抱えるさまざまな課題を解決するため、政治は、国民は、何をすべきか。
この両氏に、意見をぶつけてもらった。
(司会・本誌主幹・村田博文)

戦後リーダーの思想を問う


--いま、品格という言葉がキーワードになっています。政治経済の現状と絡めて、この品格についての考えを聞かせて下さい。


渡部 品格というのは、究極的に、プライドを持っていないと成り立たないと思います。日本の場合、東京裁判史観のせいでプライドを失った人たちが、戦後のリーダーになってしまっています。それでは、国がプライドや品格を持てるはずがありません。

亀井 いま、渡部先生がおっしゃいました東京裁判史観は、戦後における一つの時代をつくったことだと思いますが、結局、東京裁判を、あたかも我々日本人自身が過去を総括したがごとく、我々自身がそれを心理的に受け入れてしまっていることが問題です。
 極めて残念なことですけれども、日本人のアイデンティティを否定するところから戦後の保守本流が始まってきている、という側面はあると思います。


--渡部さんは、戦後60年が過ぎた今、どうやって、亀井さんが言う日本のアイデンティティを取り戻すべきだと思いますか。



渡部 それは非常に簡単なことだと思います。占領下七年間につくられた法律は、日本に主権がなかった時代の法律として、憲法も含め、全部無効であると宣言することです。そして作り直す作業をしなければいけません。

亀井 私も、自主憲法を我々自身が制定しなければならないと思っています。これはもう当然の話です。ただ、憲法改正論議が進められていますが、私は、いまの時点では、憲法は改正しないほうがいいと思うのです。


--将来はよくても、いまが駄目なのはどうしてですか。

亀井 こんなに萎(な)えた国民、魂を失った国民では、しっかりとした憲法をつくれるはずがないからです。現行憲法より、もっと悪い憲法になる危険性もあります。
 国民精神が健全化し、躍動していく中で、我々の基本法を我々自らがつくる、ということでないといけません。
 教育基本法も同じです。愛国心一つ取っても、入れるべきか入れるべきでないかで、議論が行ったり来たりしています。こんな状態では、憲法に手を付けることはできません。

渡部 やはり、そうした意欲を持った亀井さんには、自民党に戻ってリーダーシップを執ってもらいたいと感じました。現実問題として、やはり自民党でない党が与党となるのは、物理的な難しさを感じます。

亀井 いいえ。我々は、権力闘争や行き当たりばったりで、自民党を出て国民新党をつくったのでは決してありませんので、そこをきちんと理解していただきたいと思います。
 やはり、法律抜きの哲人政治をしたほうが国民が幸せになる、という考え方もあります。
 しかし、郵政民営化の時に代表されるような、一国の総理総裁が、日本人としての情感、仁義、そういうことに関係なく、自分に反対する者を潰していくというようなやり方を、ほかの政治家が是認してしまったら、日本の政治というのは、その瞬間に死んでしまう。
 そう思っての決断であったことを分かって頂きたい、と思います。

渡部 ただ、いまは小選挙区でしょう。これが必要以上に自民党の力を強めていますよね。
 今後、政界再編成が起きて、亀井さんのような志を持った政治家と、共産党を含めた別の側の政治家との二勢力に分かれることが、望ましいのかもしれません。

格差時代の地方の生き方


--ここで視点を変えますが、格差が注目されているように、東京と地方、地方でも大阪や愛知などの比較的勢いのある大都市と、そうでない地域があります。地域振興という点では、この格差の是正というのは、どう考えていけばいいですか。

渡部 地方の問題は非常に難しいと思います。私が留学などを通してイギリスの実情に触れた経験を申しますと、やはりロンドンを除けば、それ以外の都市は、あってないような状態です。日本は、それでもまだ大阪や福岡が頑張っていますね。
 日本の中央集権が見直される傾向にありますが、諸外国に比べれば、中央集権の度合いは特別強い国ではないのではないでしょうか。


--そうすると、渡部さんは、日本の地方は、ある程度廃れていってもいい、という考えですか。


渡部 いいえ、もう少し人口密度が下がっても、構わないのではないかということです。当然そうなれば、その土地から消えるものもあれば、進出するものもあります。原発の用地もその一例です。それに、農地は大きくなって新たな可能性が生まれます。

亀井 渡部先生がおっしゃるイギリスも、英国病に罹った後、サッチャーが出てきて、事実上、アメリカに国を売ってしまいました。その結果、イギリス自体が国家としての誇りを取り戻しているでしょうか。取り戻していませんよ。もう外交政策もアメリカの言いなりでしょう。
 経済も、イギリスから、かつての民族資本は消えてしまったも同然です。アメリカ資本、ドイツ資本、ユダヤ資本が強さを発揮しています。それが、サッチャー革命だったのです。
 国家の歴史として、これが歓迎されることなのかどうか。私は少なくとも、日本がその道を歩むのは、正しくないと思います。そうした国が「品格ある国家」だとは、思えません。

渡部 イギリスについて、私は亀井さんと考えを別にします。
 なぜ、イギリスがそうなってしまったのか、これは第一に、日本と戦争したのが悪かった。イギリスの国富のもとは全部植民地にありましたが、日本と戦争したために全部なくしてしまいました。第二に、社会主義が出てきたことにより、不労所得に九十何%もの税金を課して、いわゆるイギリスの背骨みたいな階級を一掃したことも悪かったと思います。有能な人はアメリカに行った。これが1960年代の頭脳流出(ブレイン・ドレイン)です。
 税金ばかり取られて、だんだん中産階級がなくなってくると、その結果、大きな家が廃墟と化して、例えば美しかったエディンバラは、目も当てられないほどの衰亡を遂げました。
 日本の場合は、農家に生まれないと農業できないという制度が、良くなかったと思います。いま、ようやく株式会社が農業に参入できるようになってきていますが、田舎の農地は荒れ果てているところが多いですね。

亀井 それはどうでしょうか。土地はただ同然なのです。むしろ引き取り手がない。土地を活用しきれていないのです。

地方を甦らせる農政の在り方


--農業の後継者、担い手がいないということですね。


亀井 基本的には農政が、やるべきことをやらなかったことが原因です。やはり都市と地方との所得格差がありすぎて、農村に後継者が残るような状況をつくらなかった。これは、自民党による農政の間違いです。私にも責任があると思っています。農政と経済政策全体で失敗したということです。
 私の地元である広島県の農村は、全国的に見ればまだ豊かなほうです。全国平均で、農家の月収は十何万円だそうです。ここから農機具代、肥料代などを支払っています。米の代金は全て農協が支配して、いろいろ引かれますから、農家の実際の可処分所得というのは、さらにグッと下がります。
 そうした中で、何よりも悲劇なのは、年収200万円以下の家庭が、せっせと都市部の大学に子どもを出していることです。仕送りがままならないわけです。子どものほうは、大学を出て実家に戻ってくるわけではありません。都会の空気を一度吸ってしまったら、なかなか田舎には帰ってきません。都会で何をしているのか。フリーターです。
 国家のありようとして、こういう事態を放っておいていいのか、渡部先生にも、もう一度考えて頂きたいと思います。東京だけが日本じゃない。都会もあれば田舎もあって、それぞれが必死になって先祖伝来の地域で生きていこうとしています。そうした土地にある程度住み続けられるようにするのが、政治の責任だと、私は思っています。

渡部 私も田舎に帰ってみますと、地方を再編成する必要があると思うのです。一番の問題は、家制度の崩壊です。先ほど、亀井さんが、田舎に戻る若者がいなくなっていることを指摘されましたが、はっきりと次男以下の者と家を守る長男との本質的な差をつけない限りは、田舎の家は続かないと思います。
 戦後の民法をつくる時に、均等相続制度を導入しました。私は、あれで一挙に田舎がダメになった、と思っています。

地方存続のための補助金制度を


--具体的には、どんなふうに再編成すればいいと?

渡部 例えば、遺言によって100%を一人に相続させることが出来るようにするとか、農業の株式会社化をするとかで、能率的な再編成ができます。

亀井 いや、農業の株式会社化は、できるところと、できないところとがあります。できなければ、諦めてその土地を離れなければならないのかというと、そうではなくて、そういう人たちが、その地で生きようとするのであれば、きちんと生きていけるようにするのが政治だと。
 これは、何も生活保護などのことを言っているのではありません。生活保護で面倒見てやるから東京へ出てこい、ということがあっていいのでしょうか。ある面で、中山間地域において、彼らは、日本の緑の番人としての役割を果たしてくれているわけです。何もぜいたくをさせるわけではなく、その役目を担って生きていけるような政策を、何かしら取れると思います。

渡部 それは、何らかの補助金を与えるということですか。

亀井 ええ、それはもちろん。現に1兆7、8000億円の生活保護費を出しているわけです。生活保護をもらうことが、悪いとは言いません。ただ、それが出せるのであれば、やはり地方で日本の緑と水を守っている人たちに対しても、何か手を打つことができるでしょう。


--その額というのは、試算した場合、どのくらいの規模になりますか。


亀井 2、3兆円程度になるのかもしれません。少なくとも、生活保護の規模ではできないと思います。ただし、ただ「くれてやる」「もらってやる」の制度では、絶対に駄目です。農家の人たちが、わずかでもきちんと農業をしていればね、適正価格で仕事ができるような仕組みを同時につくっていく。これは難しい話ではありません。
 東京だけ良ければいいという政治では駄目だというお話をしましたが、私は産業界にも、最近、同じような風潮を感じているのです。自分の会社が儲けるためならば、どんなあこぎなことをやってもいいんだ、というように。

下流社会の次に待ち受けているもの


--自分だけが良ければいいのではない、共に生きていこうと。これは元来、日本に根付いていたはずの精神ですね。


亀井 そうです。日本はそうした精神を誇りにして、二十数年前、世界屈指の経済大国に上り詰めました。
 もちろん、精神的には、戦後、渡部先生のおっしゃるような、えもいわれぬ荒廃が続いているのは事実です。しかし、あくまでこれは精神的荒廃であって、経済的には、やはり日本人のDNAは、世界のDNAと勝負をして勝ったのです。
 ところが、その後、グローバリゼーションと称する外資が、日本を食い荒らすために、自分たちの都合のいいように制度改革、規制緩和を進めたでしょう。
 ある意味、日本経済は焼け野原になりました。いま景気がよくなってきたと言いますが、焼け野原にだって、ある程度たてば、ペンペン草ぐらい生えてきます。ただし、そのペンペン草は、日本の美しい野花ではなくて、アメリカから飛んできたよく分からない植物です。

渡部 そうですね。もう少し具体的には、ハゲタカが日本に来るようになったのはね、バブルの時代の総量規制が原因なのではないですか。総量規制によって、銀行が片っ端から潰れるような事態になり、政府の助けで生きのびました。ハゲタカの入る余地もそこにできたのです。だから、私は現状の責任をアメリカに求めるよりは、やはり日本自身がきちんと反省しなければならない、と思います。

亀井 おっしゃるとおりです。また、もう一つの問題は、日本の経営者が、日本人のDNAを忘れて、ただ自分の金儲けに走ってはいまいか、ということです。経営者だけでなく、金を握った人間のモラルハザードが起きている。このまま格差社会がどんどん進んでいってしまった場合のことを考えると、ゾッとします。
 「下流社会」という言葉が注目されているそうですが、中流だった人が下流に落ちつつあり、下流はさらに落ちていく。一番下に落とされた人間は、ほんの一握りの上流に対して反感を持って生きていくでしょう。後に待っているのは、犯罪社会です。現に、アメリカがそうなっているでしょう。


--新しい雇用法を巡って起こったフランスの暴動にも、そうした側面がありますね。

亀井 さらに危険なのは、その一部の上流の人たちが、精神貴族的になってしまうことです。精神貴族的というのは、自分たちの社会、自分たちの生活を守るということだけに関心を持ってしまうことです。それこそがモラルハザードだと思います。

渡部 田舎には昔、名家が必ずあったでしょう。うちは貧乏でしたが、これまで一度も金持ちを憎いと思ったことはありません。というのも、彼らは、実に品格があって、立派だったからです。各地域の中心になるような家がありました。

亀井 私も、いま渡部先生のおっしゃった点は、かつての社会の安定において、大変な役割を果たしていたと思います。
 例えば、地域の開業医がそうした役割を果たしていましたね。開業医の役割は、病気を診るだけではなく、地域社会の核となることなのです。人の命を預かる重要な仕事をしているだけに、それなりの経済的余裕があり、文化や教養を身につけている彼らだからこそ、近所に目配り気配りができるわけです。

渡部 プライドがあるから、そうしたことができるのだと思います。ところが正当な仕事の報酬でないお金の味をしめると、プライドを失う人が多いのです。
 作家の宮尾登美子さんのお父さんは、土佐(高知県)で紹介業をやっていたのだそうです。
 健康な若い女性を芸者屋などに渡すと、大体1000円ぐらいが親に入る。昔の1000円といえば大変な額です。ただ、1000円分かせげば娘は戻れるわけです。ところが、娘の金で食ったことがある人とうのは、再びその娘を芸者屋なり何なりに出して金を手に入れるものなのだそうです。全員が全員ということだったそうです。

亀井 先生のおっしゃることも一理あるかもしれませんが、心というのは、そこまで頽廃してしまうものなのでしょうか。プライドは、まだ日本人の心の中に存在していると思うのですが。
 やはり、プライドと一口で言っても、例えば、ヨーロッパの貴族が持っているようなプライドでは、いけないと思います。

日本人の誇りとは何か?


--ヨーロッパ貴族の誇りとは、亀井さんはどんなものと捉えているのですか。


亀井 自分だけでなく、そばにいる人たちを含めて、みんな一人ひとりが幸せになって生けるよう努力しないで、ただ見た目のプライドだけを追い求めるということです。
 自分が傷つけられないように努力する、傷つけようとするものは撥ね飛ばす。そういう誇りは、人間の持つべき誇りではないと思います。生きとし生けるものに対する共感が必要です。
 その中には、困っている人や弱い立場の人を助け、少しでも力になっていこうという努力が含まれます。国家権力も恐れず、世間の目も恐れず、それを実行できる心こそが、本当の人間の心だと思いますよ。

渡部 亀井さんがおっしゃるような、困っている人、弱い立場の人というのは、どうしても一定程度いるわけです。これは、セーフティネットで最低生活を保障するよりしようがない。そこで立ち上がる人がいたら、立ち上がるチャンスだけは用意されている社会である必要があるとは思います。

亀井 もちろん、一定程度、そうした人たちが必ずいますけれども、必ずいると言って諦めてしまっては、人間の本質を否定しかねない。私が言いたいのは、格差はあるけれども、それに対してはみんなで配慮していこうという共存共栄の精神を取り入れた資本主義が行われていくべきではないか、ということです。

渡部 昇一(わたなべ・しょういち)
1930年生まれ。55年上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了後、同研究科助手となり、ドイツやイギリスへの留学を経験。上智大学文学部英文科講師、助教授を経て教授となり、94年にはドイツ・ミュンスター大学より名誉博士号を受ける。2001年定年退職とともに上智大学名誉教授となり、現在に至る。『知的生活の方法』『反日に勝つ「昭和史の常識」』など著書多数。

※無断転載を禁ず


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