活動実績

新聞・雑誌等での亀井静香の発言

戻る

2008.11.22◎月刊日本12月号
亀井静香VS中村慶一郎
「亡国の危機にある我が国へ警鐘を乱打する!」
亀井静香インタビュー(聞き手:中村慶一郎)

亡国の危機にある我が国へ警鐘を乱打する!
国は、指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷ふことによりて滅びる

麻生首相はドライフラワーだ・・・亀井

中村 亀井さんは麻生総理が年内解散を見送ったことをうけて、「咲くも桜、散るも桜だが、覚悟のない首相はドライフラワーになりつつある。こんな首相が世界的な危機の中で日本を救えるはずがない」と仰いました。
 この「ドライフラワー」という言葉の真意をお伺いしたい。
亀井 この解散見送りというのは、いま選挙をやっても勝てそうに無いから解散しないという、党利党略の損得勘定の結果だった。これは裏返せば、選挙情勢を分析して「勝てそうだったら解散して国民に信を問う」という理屈だ。
 これは総選挙というものの本筋から外れた発想で、解散の是非以前に、国家国民のことを考えていないということだ。国家国民のことを考えない総理に、果たして総理の資格があるのか。私が言いたかったのはそういうことだ。
中村 中野正剛は朝日新聞に請われて昭和18年元旦の、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を書いた。中野正剛は、「国は経済によりて滅びず、敗戦によりてすら滅びず。指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷ふことによりて滅びるのである」と喝破しました。
 現在の政治は、まさに「指導者が自身を喪失し、国民が帰趨に迷」っている状態です。
 現在、亀井さんが衆議院本会議場で座っておられる議席は、中野正剛が座っていた誇り高き議席だと聞いています。今日は、亀井先生に大いにいまの政治を叱咤していただきたい。
亀井 世界の歴史は曲がり角に差し掛かっている。かつて、産業革命を契機に資本主義というものが現れ、それが貧富の拡大、階級の固定化を生み出し、多くの人々が虐げられた。また、この資本主義はやがて世界恐慌を生み出すことになり、この資本主義の矛盾を克服すべく、修正資本主義とも言うべきケインズ政策がとられた。
 冷戦時代には、共産主義への脅威から資本主義諸国も社会主義的政策を取り入れて、革命の脅威を緩和していたのだが、冷戦が終ると「民間重視」の掛け声とともに、いわゆる新自由主義へと政策はシフトした。これは要するに無制限に利潤を追求する純粋資本主義と呼ぶべきものであって、日本でも格差社会が出現し、一方、サブプライム問題を契機に、世界経済は恐慌の一歩手前まで来ている。
 歴史は反復しているのだ。かつて世界史が辿った道を、いま我々はまた辿ろうとしている。
 サブプライム・ローンとは、貧しい人が家を建てるための債権を商品化し、その債権を金持ちが世界中に売りまくったものだ。これがうまく機能するためには、ローンを借りた人々が豊かになり、返済するという前提が必要なのだが、富者が貧者を貪り食う一方で、貧者が豊かになることもなかったので当然のように破綻したわけだ。
 日本でもサブプライムによる世界経済危機が波及し、小泉純一郎・竹中平蔵以来の新自由主義政策の矛盾が噴出し始めている。格差社会は進行し、老いも若きも将来に見えるのは不安ばかり、希望を持てる材料がない状態だ。
 本来、安倍、福田、麻生各氏の役割は、いかにして小泉・竹中路線からシフトチェンジするかということだったのだが、いずれも決別できないまま、安倍、福田の二つの政権は自壊してしまった。麻生総理にも難しいだろう。
 本来、麻生総理と私は政治思想、政策において一致するところが多かったのだ。ところが、小泉政権以降、麻生氏は自らの経綸とは異なる選択をして、政権中枢へと入っていった。自らが閣僚として、あるいは党幹部として支えてきた政権の批判はできない、だからずるずると小泉・竹中路線と決別できない状態が続くのだ。
 やはり、麻生総理は自らの過去を総括しておくことが大事だ。自分の政治信念に従って、抵抗勢力になるべきであったと、過ちを認める必要がある。過ちを改めざるをこれ過ちと言うのだ。
 そのように総括をしなければ、いつまでも新自由主義を清算できないまま、国民生活はどんどん悪化する一方だろう。そして総理の支持率もどんどん下がるだろう。あっという間にドライフラワーだよ。

政治にも国民にも品格がない・・・亀井

中村 世界が歴史的転換期にあるのに、我が国だけが変化に取り残され、明確な指針を欠いて、滅びかねない状況です。
 この災いの根はどこから発しているのか。
亀井 品格ですよ。政治に品格がなくなっている。それは与野党ともに同じだ。まず、与党には森喜朗元総理が実力者として君臨していながら、政権に対して何ら指導力を発揮していない。本来ならば、森元総理のような立場の人こそ、国民国家のことを考えたご意見番としての役割を果たさなくてはならないのだ。
 たとえば、いま政府与党は定額給付金というバラマキを目論んでいる。しかしこれは景気対策にもならないし、生活擁護にもならない。かつて地域振興券が何も効果をもたらさなかったことから何も学んでおらず、とりあえず金を配れば支持率が上がるのではないかという程度の実に国民を馬鹿にした政策だ。      
 もっと言ってしまえば、政権与党による有権者の非常識な買収だ。国民新党が東京地検に選挙違反で自民党を告発することも考えねばならない。
 一方、民主党にも品格が欠けている。国民新党と民主党は定期的に会合を開いているが、ついこの間、私は菅氏、鳩山氏を叱責しなければならなかった。国民の7割が解散総選挙よりも目前の生活の安定を望んでいるのに、民主党はなんとかの一つ覚えで解散ばかり訴えている。これでは却って国民の心は離れるだけだ。
 挙句の果てには、解散をするのならば対テロ特措法などでの与党案も結果として飲み込むというような、本末転倒の議論が出てくる始末だ。
 野党の役割とは何か。いま、内政・外交で何をなすべきなのか、それを明示して国民に訴えることなのではないのか。
 麻生総理がホテルのバーで飲んでいるなら、我々は居酒屋だなどと、低レベルも極まったパフォーマンスをしている場合ではないのだ。そんな暇があるなら、全野党党首が全国の中小企業、町工場を見て廻り、本当に辛い思いをしている人たちの声を聞き、その上で政策を提示すべきなのだ。
 民主党は反対のために反対していると国民に思われるのが嫌なので、筋を曲げてはいけないところで筋を曲げて与党案に擦り寄るという愚も犯している。

いっそのこと太田公明党代表を総理にしたらいい・・・亀井

亀井 こうして与野党ともに品格を欠いているのだが、マックス・ウェーバーの、「政治家の資質はその国民のレベルで決まる」という言葉を想起するのなら、結局は国民の品格の問題ということになる。
 与党はどうせ国民は「お金をもらえるなら嬉しい!」と、喜んでしまうだろうと、足元を見透かして定額給付金をチラつかせているわけだが、一旦は配った定額給付金だって3年後には消費税増税することによって再び回収、いや、それ以上の額を回収されることになるのだ。そのことも見えずに定額給付金を許すとしたら、もうこの国民は救いようが無いのではないか。「朝三暮四」をそのまま地で行く、まことに愚かな政策なのだ。
 そりゃ人間だから、一人1万何がしかの思いがけない小遣いが入れば嬉しいかもしれない。しかし、それであなたが暫くの間嬉しい思いをするにしても、それで子や孫の世代に対して責任を果たしたといえるのか、それを迫る政治が必要だ。
中村 自公連立についてはどう見ているか。
亀井 本来貧しい者、虐げられた者のための政党である公明党が政権与党になり、小泉・竹中路線という弱者切捨て政策に加担したという捻れがある。その捻れを解消しようと公明党も定額給付金だの与党でありながら解散を迫るという、二重、三重の捻れを生み出すことになっている。
 自民党の議員の中には公明党の持つ固定票に頼らなければ当選できない議員が多数いる。票を抑えられているから公明党に表立って反対できないのだ。
 それなら、いっそのこと、名実を一体化させて、大田明宏代表に総理大臣になってもらえばいい。そのほうがよっぽどすっきりする。

アメリカに対して卑屈になるな・・・亀井

中村 定額給付金は2兆円規模と言われているが、その金にはもっと別な使い道があるはずです。
亀井 いま、中小企業は設備投資する意欲も体力もなくなっている。部品などの発注も安いという理由で外国に発注されているから、国内の中小企業や町工場の仕事が激減しているのだ。同じ2兆円を使うのなら、国内発注に助成金を支給するなど、国家経済全体で内需拡大するような経済対策をすべきだ。
 要は、党という単位の発想で国民のご機嫌をとろうとするのがダメなのだ。今は未曾有の国難だ。救国という視点から政策を発想しなければならない。解散は先延ばしになったが、遅かれ早かれ解散はやってくる。それまでの間に、各々の政治家は、そもそも選挙という洗礼を受ける資格があるのか、胸に手を当ててじっくりと考えるべきだ。
中村 自公の政権構造が固定化したため、閉塞感が増してきているように思うが。
亀井 経済は失速し、自分たちの将来も見えない。こういう状態では排他的ナショナリズムが起き易くなる。これは大変危険だ。閉塞感を発散しようと、国の内外で敵を見つけようとするのだ。
 いま、対馬に対する韓国の投資が多くなっていることが問題視されている。この問題についての議員連盟もできたが、対馬問題を安易に領土問題、そしてナショナリズムに結び付けてはならない。韓国が合法的に投資しているのを領土の侵略と捉えるのは筋違いだ。国境保全と経済活動は別なのだ。韓国の投資が多くなっていることに危機感を覚えるのならば、それは対馬への日本人の投資を増やすという方向に向うべきだ。安直な韓国資本排斥論に陥らないように、慎重に考えなければならない。
 特に、中国、韓国に向かって偏狭なナショナリズムが噴出するのは危険だ。これは一種の倒錯現象で、中国・韓国に対しては居丈高な論者も、アメリカに対しては卑屈なことが往々にしてある。日本は莫大な額のアメリカ国債を保有しているのだし、アメリカのアジア戦略の拠点として、岩国基地、厚木基地、横田基地といった国土を貸してやっている。
 我々はアメリカに対して、決して卑屈になる必要などない。私は必ずしも石原慎太郎東京都知事と意見を同じくするものではないが、アメリカに対して言うべきことは言う、というのが大切だ。対米自立・自尊が大切だ。今回の世界金融危機についても、日本が100兆円規模の融資を行うことになりそうだが、カネを出すだけ出して、何も言えないというのでは駄目だ。
 「危機こそ、好機」なのだ。世界金融危機に際して、金を出すなら口も挟む、日本がイニシアチブをとって、国際政治でもプレゼンスを発揮するチャンスとすべきだ。

わが国はいま亡国の危機にある・・・亀井

中村 ナショナリズムと言えば、自衛隊の空幕長の問題発言が世間を賑わせている。
亀井 あれは、二重の意味で話しにならない。
 第一に、実質的に軍人であるところの空幕長という現役幹部が歴史認識を口にするのは、立場と状況をわきまえない、勘違いも甚だしい事態だ。
 もちろん、個人としてさまざまな歴史認識を持つ自由はある。だが、軍人は政治に容喙してはならないのだ。戦場で銃を構えたときに、撃つべきか撃たざるべきかを判断するのは軍人ではない。その判断は政治がなすべきことであり、それがシビリアンコントロールということだ。
 2・26事件の際、陸軍幼年学校校長であった阿南惟幾は、「農民の救済を唱えて政治の改革を叫ばんとするものは、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と訓示を行った。これが軍人としてのモラルというものだ。
 第二に、私は日本無謬論とも言うべき極端な歴史認識は、却って国を誤らせると考えている。それぞれの時代において、為政者が難しい決断、苦渋の決断を迫られたということはあるだろうが、だからといって無謬を主張することはできないし、他の帝国主義諸国が同様の事をしたのだから日本だけが責められるいわれはないと開き直るのは、恥知らずな子供の論理だ。
中村 今、2・26事件の話題が出たが、それに先立つ、5・15事件の折、海軍軍人だった三上卓は、『青年日本の歌』を作り、「権門上に傲れども、国を憂うる誠なし。財閥富を誇れども、社稷を思う心なし」と当時の国情を嘆きました。青年将校には、そういう痛憤もあったのです。
 いままさに、日本の社会状況は昭和初期の大不況期のような様相を呈しているのではないか。これを打開する策はないのか。
亀井 確かに大変な状況だが、これは天災ではなく、政治がもたらした「人災」だ。政治がもたらした災いは政治でもって収拾することができるのだ。
 地方は疲弊困憊し、弱者は虐げられ、為政者への怨嗟の声は天下に満ち満ちている。この惨状をもたらしたのはまぎれもなく、小泉・竹中路線だった。簡単に言えば、この小泉・竹名路線が進めてきた路線を否定することが、いま大切なのだ。
 地方の疲弊の一番大きな原因は、財政再建の名分の下、公共事業を無定見にカットしたことだ。だが地方経済は、大手建設企業というよりも地元に密着した中小の建設会社によってまわっている。そこに雇用も生まれ、需要も生じるのだ。
 日本にはまだまだ基礎体力がある。今のうちに、地方経済が復興するような公共事業を再開すべきだ。その財源には建設国債を発行すればよい。
 地方では下水道普及率が低いところはまだまだあるし、都会だって、電線を地中に埋め込んで電柱を撤去すれば、道路が格段に広くなり交通も便利になる。「開かずの踏切」などというところも立体交差させていけばよい。四国や九州ではまだまだ生活道路の整備が不十分だ。地方の病院が倒産し、ご老人たちが病院を追い出されるという事態も放置してはならない。
 要するに、ある程度の経済効率性を無視しても、その地方地方に住む人々、老いも若きも安心して暮らせるライフラインの整備は、まだまだすべきなのだ。それこそが政治の役目ではないか。
 そしてそういうライフライン整備の仕事こそ、地方の中小企業が潤う需要となる。今の日本が取り組まなければならないのは、安心して住める国づくりであり、そのための内需拡大だ。
中村 しかし民主党の若手議員などは、公共事業をバラマキと言って批判する向きもあるようだが。
亀井 松下政経塾を出たような秀才議員に足りないのは、日本人の暮らしがどういうものなのか、我々がどのような歴史を経て今に至っているのかという、地に足の着いた感覚だ。机上の空論でばら撒き批判をするから、結局、国民の生活というものが見えなくなってしまう。
 厳然として、地方経済は公共事業なしには回らないという事実がある。その経済構造を変えていくという議論と、いま苦しんでいる人たちを助けるという議論を混同してはいけないのだ。
 中村さんが先ほど、三上卓の『青年日本の歌』を引用されたが、その歌は「ああ人栄え国亡ぶ。盲たる民世に踊る」と続く。
 実に、わが国はいま亡国の危機にある。国民に覚醒を求め、我々に続く世代にどのような日本という国を託すのか、それを国民に迫るのが、真の政道だ。

構成 本誌・喜多克尚

※無断転載を禁ず


戻る

TOPに戻る

バックナンバー