夕刊フジ連載

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亀井静香のこれから勝負だ!
【17】先入観がオウム犯罪見過ごした
2003.05.01

疑問を持たず…

 先週24日、オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫被告に対し、検察側が死刑を求刑した。私は地下鉄サリン事件が発生したとき、村山内閣の運輸大臣を務めており、運輸省各局の幹部に電話で指示を飛ばしたことを昨日のことのように覚えている。
 一刻を争う緊急事態ゆえ、通常は文書で行う指示や通達を口頭で行い、決裁した。被害の出た地下鉄の現状把握とともに、第二次攻撃に備えて、新幹線や航空機、私鉄、船舶などに厳重警戒態勢を敷くよう命じた。
 それにしても、初公判から七年とはあまりにも長かった。
 一連の事件を振り返って、オウムの犯罪に対する憤りや悔しさとともに、これらの犯行を可能とした社会的背景として感じるのは、まず、捜査機関をはじめとする日本社会の先入観ではないか。
 当時、捜査機関にとって宗教団体はアンタッチャブルといった感覚が強く、ましてや多くの日本人にとっても「宗教者による殺人」など考えられなかった。そうした先入観がおぞましい犯罪を見過ごす結果になったことは認めざるを得ない。
 オウム信者が経営していたラーメン店では、異常に大きな空気清浄機が設置してあった。どうして、地元をパトロールする警察官や常連客が「おかしい」「なぜ、こんな巨大なものを…」と疑問を持たなかったのか。
 また、松本サリン事件の発生後に、山梨県上九一色村の牧草が変色して、その土壌からサリン生成とともに発生する化学剤が検出されたことがあった。近くにはオウムの第7サティアンがあり、毎日のように化学薬品が搬入されていた。これも監視しておくべき対象だった。
 また、日本の戦後教育の失敗という面もある。
 オウムという狂信的宗教には、高い教育を受けた若者たちが次々と洗脳されていったが、戦後教育が頭デッカチの知識詰め込みばかりで情を育てることを軽視したため、人を殺すことを正当化する戦慄(せんりつ)の教義を前にして、疑問を感じて反発する若者が少なかったことも問題だ。

社会全体が病む

 社会全体が病んできており、健全な精神のバランスを取れない若者が増えているのかもしれない。「人間とは何か、どうあるべきか」といった本質を見つめ直していく学校や家庭での努力とともに、若者が閉ざされた妄想の世界に引き込まれそうになったとき、それを食い止める家族の愛情や友達の友情なども不可欠だろう。
 ともかく、日本社会の健全性や復元力を高めなければ、これからもオウムのようなオカルト集団が現れるのは避けられないかもしれない。

※無断転載を禁ず

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